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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説7

戦後の混乱期とゼネスト

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終戦当時の電車は、ガラス窓がないものなどが当たり前の状態であり、それでも旅客輸送は続けられました。

ゼネラル・ストライキGHQ

みなさま、こんにちは。

あさからずっと4時間近くPCの前でblogなどを書いているような気がする・・・さて、本日も久々に更新させていただこうと思います。

ゼネラルストライキを考えるときに、実は日本共産党とGHQをセットで考えなくては本質を見誤ることになります。
特にGHQの政策を支持するとか日本共産党を支持するということではなくあくまで中立的立位置から見ていくのが今回の趣旨であります。

実は、GHQゼネラル・ストライキに対して強く反発したのは、共産党の台頭を気にしたのではなく、実はもっと切実な問題があったのです。

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それは、食糧問題でした。
歴史のピースと言うのは、バラけてしまうとその部分だけがクローズアップされてしまうのですが、当時米よこせデモというのが昭和21年5月のメーデーで行われ、下記のようなプラカード事件(内容を再現したものですが。)が起こりました、それほど当時の食糧不足は問題で、政府としても地方の備蓄米などを供出するように要請していましたが、地方としても東京に出してしまえば今度は地方の食べる分がなくなるということで中々供出には応じなかったと言われています。
実際、アメリカとしても供出するための準備は行っていましたが、当時のGHQの方針は日本人を死なない程度に飢えさせて億という主たる方針がありました、そして一番注意しないといけないのが、こうした食料の輸送も含め。東京という都市は鉄道(貨物)を通じて運ばれるという事実です。
ゼネラル・ストライキは、官公労・民間労組が集結したストライキであり当然のことながら鉄道もそのストライキに参加することになります。

 

実は一番恐れたのは国鉄が止まること

 

ストライキが行われ鉄道輸送が停止した場合、当然のことながら人間の生命線である食料を労働者自らが断つという、言わば田中某共産党細胞がいう、天皇陛下に対するデモは結局自分たちで自分たちの生命を危険にさらす事になるのです。
とくに、GHQにしてみればそれによるさらなる混乱と、その後に続く共産党による革命を懸念していました。
労働組合史は、国労を中心に書かれていますのでその辺は組合よりの資料となりますので、その辺をこうして補完しながら説明を加えていこうと思います。

> 全官公庁労組共同闘争委員会(共闘委)を結成した。共闘委議長は、国鉄総連合の伊井弥四郎であった。
>  47(昭和22)年の年頭に、吉田首相は、労働争議等を行う者は「ふていの輩」だと非難し、労働者の憤激をかった。これを契機に、闘争はたんなる経済闘争から内閣打倒、さらに民主的政府の樹立という政治的性格をも持つことになった。社会党共産党も、吉田内閣打倒の方針で支援し、共闘委は2月1日を期して、ゼネストを決行する方針を決めた。1月22日、GHQは、共闘委代表に対し、スト中止の勧告を行った。経済的要求でストを行う権利はあるが、政治的目的に結びつけてはならず、このストを占領目的に違反する行為だという理由であった。共闘委は、これを単なる勧告だとしてストの準備を進めたが、10月30日ついにGHQのマッカーサー最高司令官は、スト中止命令を出発し、銃剣の圧力のもとで、伊井共闘委議長によるスト中止の全国放送が行われた。2・1スト挫折は、労働運動にとって大きな転機となった。

ここに至るまでは、上記のような史実があったことを踏まえた上で歴史を見ていく必要があります。
さらに、伊井共闘委議長はスト前日までストライキを行うとしていましたが、仮にストライキを起こしていたならば自らが招いた災厄で今度は自分たちの食料が枯渇する恐れがあったということには全く気づいていなかった節があります。

>  新憲法の施行直前の47(昭和22)年4月、新憲法下での第1回総選挙が実施され、143名の議席を得た社会党比較第一党となった。だが、社会主義勢力は、議会内では圧倒的に少数であり、しかも社会党左派排除を求める自由党からの圧力も強かった。この圧力に関連して、5月15日には、社会党左派の鈴木茂三郎・加藤勘十は、共産党絶縁宣言を発表した。6月1日、片山哲首相のもとで、連立内閣が発足したが、4党政策協定に束縛されていたこと、さらに、戦後の東西対立=冷戦政策へと転換しつつあったアメリカ本国とGHQに強く束縛され積極的な政策展開ができなかった。

以下は日本労働党の記事から引用していますが。

日本労働党中央委員会(JLP.NET)

> 片山首相は、「危機突破のために、それぞれの分野に応じて犠牲を甘受していただきたい。インフレの克服、生産復興のために、このうえとも、耐乏の生活を続けていただきたい」と国民に耐乏生活を強い、賃金統制政策や賃金体系の改悪をおしすすめた。
>  四八年三月、片山内閣に代わって登場した芦田内閣は、施政演説で「ストライキを鎮圧し、ストライキ参加者を投獄する」と公然と述べ、生産管理闘争の力による弾圧に踏みこんだ。四月には、日経連(日本経営者団体連盟)が発足した。「宣言」には「経営権を確立し、産業平和の確保と日本経済の再建に向って、不退転の努力を傾倒せんとする」決意が述べられ、「経営者よ正しく強かれ」と檄(げき)をとばした。

片山内閣を概略してみますと、戦後の混乱期の中で無産政党(いわゆる労働者の党)を中心として保守も含めた内閣として出発したこともあり、民主党以上の寄合世帯とならざるを得なかったこともあり、また明確に共産党とは方向性の違いから拒否はしていたこともあり、中途半端なイメージでもあり、1947年(昭和22年)5月24日から1948年(昭和23年)3月10日までの1年弱の短い期間の内閣でした。

 

以下は、国労の労働運動史本文になります。


┌─────────────────┐
├○ 7万5000人の解雇撤回闘争     │
└─────────────────┘

 46年8月、戦前の総同盟の流れを継ぐ総同盟と共産党の影響力の強い産別会議という二つのナショナルセンターが発足した。国鉄総連合はどちらにも加盟しなかったが、国鉄東京地方労組(東京地協の後身)は産別会議に参加した。
 他方、政府・経営者側は、戦時・戦後に増大した人員を整理し、経営を軌道に乗せようとした。46年7月、海員と国鉄で大量人員整理案が発表されたのは、その一環であった。国鉄の整理案は、年少者と女性を中心に7万5000人を解雇するという案であった。国鉄総連合は、闘争委員会を組織し、反対闘争を開始した。
 8月14日には臨時中央委員会を開き、一部には反対はあったが、9月15日を期してゼネスト突入を決定した。9月5日から2日間、第2回臨時大会(宇治山田)では、ストをめぐって激論が展開され、反対派の名古屋・大阪・門司の3地本が退場(四国・広島も合流)し、大会は流会となった。だが、国鉄総連合の闘争委員会は、スト賛成派の東日本地連を基盤に、スト決行の方針を掲げ、当局と精力的な交渉を続けた。9月13日、組合と当局の間で、整理案の取り消しとスト指令の取り消しを内容とする協定が成立し、14日に調印した。国鉄総連合の解雇撤回闘争は勝利した。
 他方、結成直後の産別会議は、海員と国鉄の人員整理反対の共同闘争委員会(共闘)を組織し、産別系組合は9月15日に支援ストを実施することを決めた。産別など共闘の代表は、前記の協定に反対して当時の政権である吉田内閣打倒まで闘い続けるべきだと主張し、一部の組合は支援ストに入ったが、すでに協定は調印されていた。このあと、名古屋地連の呼びかけで改めて片山津会議が開かれ。大同団結が回復された。これを正式に確認したのは、国鉄総連合の第3回臨時大会(11月20日~22日 戸倉であるが、同大会では総連合の単一化方針も可決した。

┌─────────────┐
├○ 2・1ゼネストの中止     │
└─────────────┘

国鉄、海運の9月闘争のあと、産別会議は、民間労組の賃上げ、団体協約の締結要求を中心とする10月闘争を展開した。この闘争では、電産労協が、電産型賃金と呼ばれる生活給中心の賃金体系を獲得した。この10月闘争に続いて、官公労組の賃上げ闘争が展開された。11月26日には、国鉄総連合、全逓、教員組合などの諸組合が集まって、全官公庁労組共同闘争委員会(共闘委)を結成した。共闘委議長は、国鉄総連合の伊井弥四郎であった。
 47(昭和22)年の年頭に、吉田首相は、労働争議等を行う者は「ふていの輩」だと非難し、労働者の憤激をかった。これを契機に、闘争はたんなる経済闘争から内閣打倒、さらに民主的政府の樹立という政治的性格をも持つことになった。社会党共産党も、吉田内閣打倒の方針で支援し、共闘委は2月1日を期して、ゼネストを決行する方針を決めた。1月22日、GHQは、共闘委代表に対し、スト中止の勧告を行った。経済的要求でストを行う権利はあるが、政治的目的に結びつけてはならず、このストを占領目的に違反する行為だという理由であった。共闘委は、これを単なる勧告だとしてストの準備を進めたが、10月30日ついにGHQのマッカーサー最高司令官は、スト中止命令を出発し、銃剣の圧力のもとで、伊井共闘委議長によるスト中止の全国放送が行われた。2・1スト挫折は、労働運動にとって大きな転機となった。
 だが、2・1ストの成果も大きかった。第一に、このあと3月10日、総同盟、産別会議、国鉄総連合など、28組織、446万人が参加した。当時の組織労働者の84%を包含する全国労働組合連絡協議会全労連)が結成された。この結成には、3月に予定されていた世界労連代表団の日本訪問に対し、総同盟も含めた歓迎委員会が組織されていたことも関連していた。ただ、全労連は、運営における満場一致制などの制約で、運動体としての役割は十分ではなかったが、二つのナショナルセンターを含む組織労働者が単一組織に結集した意義はきわめて大きかった。ただし、総同盟は48年6月に全労連を脱退した。第二に、2・1ストに前後して続けられた賃上げ交渉で、46年1月の官公労働者の平均賃金600円に対し、5月には1600円という大幅賃上げを勝ち取った。さらに、国労全逓などでは、大幅賃上げを勝ち取った。さらに、国労全逓などでは、組合側に有利な包括的団体協約を勝ち取るなど、成果もまた大きかった。

┌─────────────┐
├○ 国鉄労働組合の結成    │
└─────────────┘

 新憲法の施行直前の47(昭和22)年4月、新憲法下での第1回総選挙が実施され、143名の議席を得た社会党比較第一党となった。だが、社会主義勢力は、議会内では圧倒的に少数であり、しかも社会党左派排除を求める自由党からの圧力も強かった。この圧力に関連して、5月15日には、社会党左派の鈴木茂三郎・加藤勘十は、共産党絶縁宣言を発表した。6月1日、片山哲首相のもとで、連立内閣が発足したが、4党政策協定に束縛されていたこと、さらに、戦後の東西対立=冷戦政策へと転換しつつあったアメリカ本国とGHQに強く束縛され積極的な政策展開ができなかった。だが、労働者の片山内閣への期待も大きく、内閣成立の直後、全労連提唱による片山内閣激励大会が7月6日、皇居前広場で開かれたりした。
 他方、2・1ストや総選挙で遅れていた国鉄総連合の単一化の動きが具体化し、47年6月4日、国鉄総連合は、伊豆長岡市で第4回解散大会を開き、良く5日から2日間、同じ場所で国鉄労働組合国労)第1回結成大会が開かれた。この大会では、労働者の基本的権利の、国鉄経営の民主化などを内容とする新しい綱領、宣言、規約と「働くものの生活を安定する」などを内容とする今後の運動方針を決定した。大会に先立つ中央委員会では、加藤閲男委員長、吉野宗久副委員長、藤井専蔵書記長を選出した。

続く