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国鉄労働組合史詳細解説 151

国鉄改革報成立前夜の動き

昭和61(1986)年9月、国鉄を取り巻く環境を弊サイト国鉄があった時代から抜粋してみます。
全て記述すると膨大な量になるので多少端折らせていただきます。
 
政府,国鉄余剰人員対策の基本方針〈国鉄等職員再就職計画〉正式決定 9/12
「明日の国鉄を創る会」主催による「国鉄改革関西フォーラム」を大阪で開催 9/12
京都府は、国鉄職員95人(府警分85人を除く)の受け入れを決定 9/12
神戸市が国鉄職員100人の受け入れを決定 9/12
15日現在の希望退職募集状況によると、退職希望職員認定申請を提出した職員は7、193人(そのうち2、945人が既に退職 9/15
滋賀県国鉄職員100人の受け入れを決定 9/16
新潟の国労組合員、人活センターへの配転は無効と提訴 9/16
新潟鉄道管理局内の人活センターに配置された国労組合員15人が配置転換の無効と不当差別差し止めの民事訴訟新潟地裁に提訴
九州電力に103人の職員が採用決定 9/17
新潟の国労組合員、人活センターへの配転は、「無効」と提訴 9/17(新聞)
人材活用センターは、国労つぶしを狙った不当な差別だ、として新潟鉄道管理局管内で、人材活用センターに配属された国労組合員15人が国鉄相手に、配置転換命令無効確認と不当差別差し止めを求める民事訴訟新潟地裁に提訴
地方本部の仮処分申請はあるが、組合員からの訴訟は全国初
国労新潟地本に夜と9月1日現在47ヵ所284人が配置され、うち146人が国労組合員で各支部の役員や活動家という
岐阜県国鉄職員180人の受け入れを決定 9/18
日産自動車は系列の販売会社に国鉄職員876人の受け入れを決定 9/18
自民党国鉄改革惟進本部」(本部長中曽根首相)の初会合 9/19
国労との労使共同宣言、地方では結ばず。 9/19
国労の地本レベルで独自に労使共同宣言を結ぶ動きがあるが、本部と締結していない以上、地本レベルでの締結はしないように各鉄道管理局に指導していたことが明らかとなった
本部を飛び越えた形で地方と締結するのは不当労働行為にあたる恐れがあると説明している
国鉄の分割・民営化に反対し国鉄を守る国民会議、8千人で集会 9/19
岡山県国鉄職員115人(公安55人を含む)の受け入れを決定 9/22
伊勢線特定地方交通対策協議会で国鉄伊勢線の代替輸送計画決定 9/22
大阪圏鉄道網整備3機関連絡会議初会合 9/22
首都圏の国鉄各線で信号ケーブルが焼き切られる同時多発ゲリラ発生 9/24
9/24朝首都圏の24カ所で国鉄の通信および信号ケーブルが、過激派とみられる一味に切断され、6線が運行不能、150万人の足に影響
国鉄改革法案審議入り 9/25
開催中の臨時国会最大の焦点である国鉄改革関連7法案の趣旨説明と質疑が衆院本会議で行われ、国会での実質審議が開始
と行った一連の動きがあり、国鉄改革の法案が決定前ですが、国鉄以外の省庁への採用枠が決定されるなど、分割峰以下は規定事項として進む中で、過激派による通信ケーブル切断などの事象が発生しました。
国労は、より現実的な路線を模索するものの反対派の意見を押さえきれない他、当局も態度を硬化し、地本レベルでの労使協調宣言を結ばないように通達するなど、国労自身が当局から突き放されている印象を受けます。
当局としても改革労協と宣言を結んいる以上国労とも結ぶというのは、矛盾が生じると感じていたことは間違いなさそうです。
 
この時期には、一般の世論は分割民営化に対しては、赤字国鉄を改革するための荒療治は必要と感じつつも、国鉄が分割されることによる不安も漠然と抱えていました。
ここに来て左翼運動は活発となりますが、世間一般にはなんとなく改革は必要だけど・自分には直接は関係ないという雰囲気が体制を占めていたように記憶しています。
 
国労は、「国民会議の運動は全国的規模で闘われ、各地の共闘組織や市民団体の運動を合流させ、国民世論の形成に大きな役割を果たした」と総括していますが、国労が考えるほど世間的には分割民営化に関しては消極的な賛成であったように感じられます。
この辺は次回にもう少し踏み込んで語ってみます。

続く

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第四節 分割・民営化に反対する国民運動
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├○ 三 国民会議の結成と展開 │
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国民会議の運動

 まず、国民会議の発足から2カ月後の9月19日、東京都内の各駅頭での宣伝活動や国会議員への要請活動、国労本部を激励するなどの活動が行われた。午後6時からは約8000人を結集して中央集会(日比谷野外音楽堂)が開かれた。なお、この日には東京だけてなく、高知、山口、広島、群馬などにおいても集会やデモが行われている。又、10月には「国民の足を守る北海道会議」が結成された。北海道会議の結成は全国的な国民会議の結成から約3カ月後の10月19日であった。この日、札幌市で開催された結成総会には道内の地域共闘、市民組織、個人など約500人が結集した。結成後は、署名活動や国鉄当局への抗議、公開質問状の提出、各地城での住民要求の組織化、国鉄労働者と家族への激励などの取り組みが行われた。国民会議全体の運動もこのような府県レベルに結成された組織の活動を基盤とし、それに支えられながら大きな流れを作り出していくこととなった。
 国労が分割・民営化反対を堅持して闘う方針を再確立した修善寺大会(後述)後の、11月13日、国民会議の主催によって「国鉄解体を阻止する全国集会」が東京(日比谷野外音楽堂)で開催された。国労の組合員をはじめ、全国各地の代表団が上京し、約7000人が参加した。主催者のあいさつと社会党共産党国会議員の激励につづいて、六本木国労委員長は、「どんなに苦しくても仲間を信じ、団結して闘う以外にはない。国労国民会議を力を合わせて闘いつづける」と決意表明を行った。そして集会の後、参加者は国会に向けてデモ行進を行った。
 なお、分割・民営化に反対する闘いの一環として、この時期には全国の国鉄職場を対象に総評や国労弁護団を中心とした職場調査の取り組みが組織された(後述)。この取り組みは、分割・民営化攻撃のなかで現場当局による国労国労組合員にたいする不当労働行為や人権侵害を摘発し、必要な場合には関係機関に提訴するとともに不当な労務管理の実態を暴露し、分割・民営化反対の世論形成をも目的としていた。国民会議もまた独自の立場から職場調査の活動を行っているので、この活動について述べておくことにしよう。
 国民会議による職場調査への取り組みは、総勢54人で構成された調査団を編成し、87年3月15~16日に実施された。調査対象となったのはこの時期に新会社への採用・配属を通じて露骨な"国労つぶし"の攻撃がもっとも集中していた北海道の各職場であった。調査団は清算事業団に配属された組合員やその家族を激励し、国鉄北海道総局にたいしては希望者全員の新会社の採用を主張し、あわせて抗議と申し入れを行った。またこの調査を通じて、不当な差別が国労・全勤労の組合員に集中し、北海道での新会社への採用率は改革労協のほぼ100%にたいして、国労48%、全動労28%となっていること、また清算事業団詰所は人活センター以上に収容所的であることが明らかにされた。国民会議としては、こうした不当な事態を広く宣伝し、さらに国労と連帯して闘うことを確認した。
 なお、国鉄の分割・民営化が実施される直前の1987年3月31日には国労国民会議の共催で、「よみがえれ国鉄」をスローガンとして全国各地で集会・デモがくり広げられた。
 また、分割・民営化が実施された後の5月8~10日には国労教育センターにおいて、「国鉄の分割・民営化に反対し、国鉄を守る国民会議」の全国交流集会が開かれた。この交流会は、これまで分割・民営化に反対して多様な活動を展開してきた地域共闘組織や国民会議の運動の経験を交流し、分割・民営化後の国民会議の運動を展望しようという目的で開催された。そして、具体的には、①各地での裁判闘争の支援、②国労、全勤労の分会を支援し地域共闘を拡大する、③各地で報告集会を開く、④清算事業団による土地処分にたいする市民レベルでの監視行動を強める、などの国民会議としての今後の運動課題が確認された。
 こうして、国鉄の分割・民営化に反対する国民会議の運動は全国的規模で闘われ、各地の共闘組織や市民団体の運動を合流させ、国民世論の形成に大きな役割を果たした。また、分割・民営化後における国労の闘いを各々の地域でバックアップする役割が期待されたのである。
 しかし、こうした闘いにもかかわらず、国労の分割・民営化に反対する職場での闘いは困難をきわめた。当局は、87年4月1日からの分割・民営化体制への地ならしとしての合理化や広域異動などを法人と人権を無視して強引に行ってきたからである。それが国鉄内の動労、鉄労、全施労。真国労の四組合と「労使共同宣言」を結び、すべての事実をこの四組合と先行妥結し、その結果を国労に押しつけるというやり方ですすめられた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 150

久々に更新させていただきます。
今回から、弊サイト「国鉄があった時代」の記事を参照しながら、自身の記憶を絡めながらお話を勧めさせていただきます。
最初に1985年7月以降の国鉄に関する動きを見ていきたいと思います。
 

1985年後半(国鉄があった時代)

大畑線【路線廃止】下北~大畑間 下北交通に転換 7/1
岩内線【路線廃止】全線(-14.9km)。ニセコバスに転換 7/1
興浜北線【路線廃止】浜頓別~北見枝幸(-30.4km)。宗谷バスにバス転換 7/1
この内、大畑線は、鉄道経営の経験を持たない民間パス会社に移管した全国初のケースとなる
第1次線40線区のうち29線区の転換が完了
JNRカード会員募集開始 7/1
キャプテン利用の指定券予約受付開始 7/1
 国労主催"国鉄の分割・民営化反対、地方交通線廃止反対、地域公共交通を守る全国交流集会"全国各地の「足を守る会」など10団体、約1000名の参加者が結集 7/3
昭和60年度第1218回日本国有鉄道監査委員会 7/4
国鉄「再建実施推進本部」設置 7/4
杉浦総裁、現場を初視察(東京駅) 7/4
杉浦総裁は、初の現場視察として8時30分、ラッシュで混雑する東京駅を訪れ、高木東京南局長、百瀬東京駅長らとともに山手・京浜東北線ホームへ、つづいて各職場を巡視、第一線で業務に励む職員を激励
 
国労、「分割・民営」に反対を表明 7/5
国鉄分割民営化反対・国鉄再建政策推進大阪集会」の開催 7/5
国労国鉄再建監理委員会に対する抗議と国会議員に対する連日の上京要請行動 7/8
 
同盟中央評議会で宇佐美会長、「国鉄の再生は分割・民営以外にない」と表明 7/10

同盟中央評議会で、国鉄の再生について言及

昭和59年度監査報告書案について運輸政策審議会、「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画を運輸相に答申 7/11

国労三役、杉浦総裁と初のトップ会談。総裁、「監理委員会答申に沿って」など表明 7/12
国労主催、「国鉄の分割・民営化反対、地方交通線廃止反対、地域公共交通を守る」全国交流集会。110団体1000人が交流 7/13
興浜南線【路線廃止】興部~雄武(-19.9km)。北紋バスにバス転換 7/15
第2次特定地交線漆生線の第1回対策協議会開催 7/15
総評第七三回大会開催 7/15
昭和60年度最大の課題として、国鉄問題をあげ。運動方針とは別個に独立議案として「国鉄再建闘争方針」を提起。活動方針は
  1. 国鉄の「分割・民営化」を阻止し、真に国民のための国鉄再建をかちとるために国民の多数派形成をめざし、有権者過半数を目標とした署名運動を展開する
  2. ローカル線廃止をやめさせる運動を進める
  3. 国鉄労働者の首切りを許さないために、総評傘下全組合員が団結してたたかう
  4. 総評国鉄再建闘争本部を設置する、などが柱となっている

動労第12固定期全国大会 7/5~28
再建監理委員会「国鉄改革に関する意見」を総理大臣に提出 7/26
旅客6分割
  1. 貨物分離で1社
  2. 新幹線は一括保有機構が旅客会社に貸付
  3. 余剰人員対策

全文は、以下に記述

国労動労・全動労・全施労の国鉄4労組は、国鉄再建監理委の最終答申に対し連名の抗議声明 7/26
動労の第一二回大会開催 7/26
総評国鉄再建闘争本部、「答申に対する見解」と抗議声明 7/26
統一労組懇や民主団体などによびかけ、1,000万署名に取組むことを決定
国労第48回定期全国大会(名古屋)。7/29~8/2
監理委員会答申と対決する方針決定。「分割・民営化」反対のための多数派形成 5000万署名の強化、雇用を守 るため労働組合の存在をかけ、重要段階ではストライキで たたかうと意思統一。「職場の力、共闘の力、政治の力」 を一体のものとしてたたかうとの方針を決定昭和60年度第1232回日本国有鉄道監査委員会 7/30昭和59年度監査報告書案について国労委員長に山崎俊一氏 7/29~8/2
国労(20万人)は名古屋で開かれた定期大会最終日に役員改選を行ない、新委員長に山崎俊一書記長(53歳)、新書記長に荒井敏雄調査資料室長(52歳)ら新執行部を選出
山崎委員長は「分割民営化阻止」を宣言
政府「意見」を最大限尊重する旨の閣議決定 7/30
一部抜粋。全体は下記サイトを参照
国鉄があった時代 昭和61年後半

国鉄当局は、分割民営化体制へ、同盟も分割民営化容認

国鉄総裁がに仁杉総裁から杉浦総裁体制となり、国鉄分割民営化は既定路線となり、国労は、7月5日には、国労、「分割・民営」に反対を表明 しており、積極的な反対行動を行います。
国鉄分割民営化反対・国鉄再建政策推進大阪集会」の開催 7/5
国労国鉄再建監理委員会に対する抗議と国会議員に対する連日の上京要請行動 7/8
同盟中央評議会で宇佐美会長、「国鉄の再生は分割・民営以外にない」と表明 7/10
ここで注目したいのは、同盟がこの時期に、分割民営化を容認していることでしょうか。こうして同盟は分割民営化に容認の姿勢を示すものの、国労は断固分割民営化反対ということで、労使協調路線を明確に示しています。
さらに、国労の本文でも出てきますが、
1985年11月、国鉄の分割・民営化に反対する大阪府民会議が結成されたこにひとつの起点を求めることができる。
と書かれていますが、この辺の詳細を改めて見ていきますと、大原社会問題研究所の1987年版にその当時の動きを追いかけることができます。
すなわち、1985年7月25日に大阪で結成された、「国民の国鉄を守り、利用者・市民本位の足づくりを進める大阪駅周辺共闘会議」であり、これに呼応して吹田市などでも同じような運動が立ち上がったと言われています。
当時の吹田と言えば吹田操車場(この時点では信号所)があり、運用を停止した操車場には、多数の貨車が滞留しており、数多くの操車係などはその職を奪われる形となっていたわけで、当然のことながら職場がなくなるか否かの死活問題ですのでその辺は関心は高かったと思われます。
なお、国鉄での動きを中心に見ていきますと、国労は分割民営化阻止に向けてのストライキを実施する反面、鉄労では、分割民営化を容認する運動方針を決定するなど、国労が時限ストを含めた国鉄分割民営化反対を打ち出す中で。正反対の動きを行っていること、更にはこの大会で鉄労は正式に分割民営化を方針として決定しており。同盟の動きとも同調したとも言えそうです。
国労が時限スト 8/5
分割・民営化に反対する国労は再建監理委員会の最終答申に抗議して始業時から全国1、500カ所で1時間の時限スト。乗務員関係を除いたためダイヤに影響はなかった。国労のストは昨年8月以来1年ぶり
国鉄本社 第292回運転事故防止対策委員会開催 8/5
国労国鉄の分割・民営化答申に反対するストライキ決行。1588分会、6万7700人が参加 8/5
鉄労第18回定期全国大会で、分割民営化支持の運動方針採決、杉浦総裁が初めて出席 8/6~8/8
鉄労第18回全国大会(6~8日)鉄道労働組合(辻本滋敬組合長)の6日から3日間の日程で、東京・上野の池之端文化センターで関かれ、歴代総裁で初めて労組大会に出席
こうして、国労=分割民営化反対、鉄労=分割民営化推進の立場であり、動労は資料不足もありますが、この時点で積極的に分割民営化賛成とは謳っていませんが、積極的に出向なども受け入れており、分割民営化ならずとも積極的に協力態勢を敷いていましたので、実質的には容認と言えますが、積極的なものではなかったと言えそうです。
 

続く

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第四節 分割・民営化に反対する国民運動
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├○ 三 国民会議の結成と展開 │
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 国民会議国鉄の分割・民営化に反対し、国鉄を守る国民会議)が結成される契機となったのは、1985年11月、国鉄の分割・民営化に反対する大阪府民会議が結成されたこにひとつの起点を求めることができる。この大阪府民会議のもとに、関西の各地域で結成されていた地域共闘組織が結集することになったからである。もっとも、このような全国各地に組織された分割・民営化反対をめざす諸団体が結集を強めていこうとする機運は、大阪府民会議の結成以前から高まりつつあった。例えば、1985年7月3日に国労の主催で開かれた"国鉄の分割・民営化反対、地方交通線廃止反対、地域公共交通を守る全国交流集"会には、全国各地の「足を守る会」など10団体、約1000名の参加者が結集した。そして、この全国交流集会で採択されたアピ-ルでは、「政府、各政党、関係機関への申し入れ」や「総評との連携を強める」ことや、当面は「監理委員会答申反対の活動を強化し、『分割・民営化』反対の諸団体を総結集して幅広い闘いを展開するよう努力する」との運動方針が決定されていたからである。大阪府民会議の結成もまた、この全国交流集会でのアピールをふまえたうえで実現の運びとなったといってよいであろう。
 さて、国民会議結成への次のステップは1986年1月3日、国鉄の分割・民営化に反対する東京会議準備会""大阪府民会議 分割・民営化に反対する愛知連絡会"の代表が名古屋で交流集会を開いたことである。この交流集会には国労の東京、名古屋、大阪の各地本の代表も参加し、全国的な共闘組織運動の連絡組織の結成を呼びかけるアピールが確認された。また、このアピールには先の市民団体だけでなく国労3地本の委員長も名を連ねており、この意味で、以降の全国的な共闘組織の確立を推進していくうえで大きな意義をもっていた。
 この名古屋アピールの後に、全国的な共闘組織をめざす動きは急速に進展した。1986年2月16日には、それまで"準備会"であった東京の組織も「分割・民営化反対東京会議」として正式に発足することとなった。また、4月17日には「分割・民営化に反対する神奈川会議」も発足した。さらには、4月27日に国鉄の分割・民営化に反対する全国交流集会が開催されたのに続いて、5月13日には「国鉄の分割民営化に反対する全国連絡会(仮称)準備会」が発足した。同日には、東京会議と神奈川会議の呼びかけで、「国鉄解体法案の廃案をめざす5・13大集会」(日比谷野外音楽堂)が約1万3000人を結集して開かれた。かくして、7月"9日、東京九段会館において国民会議が正式に発足することとなった。そして、国民会議の発足によって、全国に組織された分割・民営化に反対する約"300の市民団体や共闘組織が大きなひとつの流れに合流していった。
 国民会議は主要な運動として、 ①「分割・民営化」の本質や矛盾を徹底的に明らかにし、宣伝 活動を行うこと、②国鉄労働者との連帯行動、③大衆行動と国会の要請行動、④国鉄当局への抗議行動、⑤無数の学習会と集会の開催を行うという方針のもとに、積極的な取り組みを展開していった。

国鉄労働組合史詳細解説 149

国鉄分割民営化が、既定の路線として進みつつある中では、市民レベルによる反対運動が提起されるようになってきました。
こうした取り組みの結果、「国民会議の結成」に繋がったと書かれていますが。
こうした動きはあるものの、当時の国労は分割民営化絶対反対が基本方針であり、階級闘争という形で当局と対立してきた経緯がある国労からすれば、動労や鉄労のように労使協調路線は出したくても出せないカードでした。

昭和60年頃までは、国労国鉄内では最大の組織力を誇り、ストライキを行いつつも主張していくことは主張していくとし、市民団体と連携しながら分割民営化反対の運動を続けて行くわけですが、仁杉総裁が昭和60(1985)年6月24日に辞任し、杉浦新総裁が就任した頃から、風向きは大きく変わって行くこととなりました。
これは、当時の政府では、分割民営化推進するための総裁を送り込んだわけであり、分割民営化を容認する鉄労・動労・全施労などに対し、あくまでも分割民営化を主張する国労にしてみれば最大の外敵が現れたと言えるかもしれません。
1986年6月25日発行の公企労レポートによりますと。
「分割・民営に向け首脳更迭断行 新総裁に「基本方策」の踏み絵」と言うタイトルが書かれており、これは一種の政府によるクーデターとも言えるもので、仁杉総裁以下副総裁、常務理事4人の解任という半数が入れ替わるという異例の人事を断行することとなり、国労は更に窮地へ追い込まれることとなりました。
ここで、国労の山崎書記長は、政府のやり方はフェァではないとして下記のように発言しています。1985年6月25日付公企労レポート 第2070号から引用

国鉄の「基本方策」は現存する

記者 突然、総裁以下首脳陣が更迭されるという国鉄史上まれに見る事態になり、監理委員会の分割・民営への新婦人が整ったと言うことになりました。組合としてこれをどのように受け止め。今後どのように対応されていくのかお聞きしたい」
 
山崎書記長 今回は、どういう分割案が出るか、まだ監理委員会の答申が出ない前に分割反対だと言うことだけで首を切ってしまうということはファッショであり、政府に意向に反対するものは首を切っても無理矢理言うことを聞かせる。しかも監理委員会は諮問委員会に過ぎないもので理、これが結論を出さない前に分割・民営に反対する勢力の一掃を図ると言うことは議会民主主義を無視したものだと思います。
この後も、談話は続くのですが、当局側で国鉄分割民営化を反対と言えなくなった以上組合が発信するしかないと発言しているわけで、その点は現在の視点から見れば至極当たり前のことを言っているように見えますし、当時の監査委員会では国鉄当局からの分割のデメリットを話そうとしても、分割民営化ありきで話が進んでおり、分割民営化以外の話は聞いて貰える雰囲気ではなかったとも発言しています。
実際、監理委員会は、政府は単なる諮問機関というよりも網一歩も二歩も踏み込んだ組織として扱うこととしていましたし、電電公社や専売公社と国鉄ではその温度差が大きかったのも事実でした。
専売の場合は元々政府による独占企業ですので直営から民営となってもそのスタイルは変わらない、電電公社の場合は民営化は外圧(アメリカからの通信分野の開放等)によるところも無視出来ないわけで、国鉄だけは累積する赤字との兼ね合いということで。その目的が異なっていたのは判りますが、そもそもの原因を作ったのは政治家であり時の政府であったのですが、その辺が包かむりのままではいささか問題かと思うわけですが、その辺は問題視されていないわけです。
 
ただし、国労が正論と言えるこうした発言をしてきたとしても、それまでの違法なストライキ等が正当化されるわけでもなく、そうした意味では国労がここに来て、市民団体などを巻き込んでの活動は目を見張るものがあるものの、いささか遅きに失したと言える部分もあるように思えます。

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第四節 分割・民営化に反対する国民運動
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├○ 二 ローカル線切り捨て反対、住民の足を守る会などの活動 │
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 前節で述べた5000万署名運動と並行して、分割・民営化に反対する「住民の足を守る会」、ローカル線切り捨て反対、学者・文化人の活動もまた精力的に展開された。いわば、これらの市民レベルで組織された諸団体・組織の運動は、総評、国労を主体とした5000万署名運動と結びつき、この時期における分割・民営化反対闘争の国民戦線を形成していたのである。また、これらの市民レベルにおける闘いは、後ほど述べるように、1986年7月19日に国民会議国鉄の分割・民営化に反対し、国鉄を守る国民会議)が正式に発足したことによって一本に合流し、国鉄の分割・民営化に反対する全国的な国民運動の流れを生み出していくこととなった。
 そこで、以下においては、1985年前後から国民会議の結成の時期に、市民レベルで組織された大衆運動がどのように展開されたのかを年表的に列挙する。
 1984年12月18日 「国鉄問題を考える京都府民の会」開催。
 1985年1月30日 「国鉄問題を考える静岡県民シンポジウム」開催。
 1985年2月15日 「国鉄問題を考えるシンポジウム」が学者、法律家、文化人と全大阪消費会の共催で開催。
1985年 3月 2日  「ローカル線廃止反対キャンペーン」の一環として、静岡で「ローカル線コンサート」開催。
1985年4月1日  「国民の足を守る中央会議」の主催により、また「国鉄再建を考える会」の呼びかけに応えて「国鉄問題専門家会議」の開催。
 1985年5月5日 ローカル線廃止反対キャンペーンとして、「ローカル線コンサート」が福岡県飯塚市で開催。
1985年5 月27日  「分割・民営化に反対し北海道の足を守る会」の主催で「国民の国鉄再建をめざす全道総決起集会」を開催。
1985年5 月27~7月13日 「国民の国鉄を守る地区対話集会」が長野県下15地区で開催。
1985年6月28日  姫路市において「国鉄問題を考えるシンポジウム」の開催。
1985年6月30日  北海道旭川市で「国鉄の分割民営化反対、ローカル線を守ろう青空コンサ-ト」の開催。
1985年 7月5日  「国鉄分割民営化反対・国鉄再建政策推進大阪集会」の開催。
1985年 8月21日 「分割・民営化」反対中部地区共闘会議の結成集会が東京・国労会館で開催。
1985年 9月1日   国鉄「分割民営化」反対山陰総決起集会が鳥取県米子市で開催。
1985年11月18日 「ふるさと線を守り国民の国鉄をつくる学者・文化人の会」が発足。
1985年11月23日  第27回国鉄うたごえ祭典の開催。
1986年1月18日   熊本で「国鉄を走らせる県民の会」と「国民の足を守る県民会議」の主催で「国鉄再建・県連帯のつどい」を開催。
1986年2月15日~17日「ふるさと線を守り、国民の国鉄をつくる学者・文化人の会」の制作によるミュージカル『希望』の東京初演。全国公演へのスタートとなる。
1986年2月21日  国鉄問題を考える学者・法律家・文化人の会など36の市民団体の主催による「ストップ・ザ・1方的な国鉄分割・民営化、国民本位の国鉄改革を要求する全関西利用者・市民の集い」を開催。
1986年3月3日 「国民の足を守る山形県民会議」の主催で「物流シンポジウム」を開催。
1986年3月14日 「国鉄の分割・民営化に反対する三多塵市民集会」の開催。
1986年3月31日 鳥取島根県の「住民の足を守る会」が連名で米子鉄道局に「国鉄の安全性、利便性を高めるための住民要求」を要請書として提出。
1986年4月18日 「国鉄分割・民営化に異議あり!市民ネットワーク」が参議員会館で結成総会を開催。
1986年4月25日 「秋田県の公共交通を考えるシンポジウム」が国民の足を守る秋田県共闘会議の主催で開催。

 ここに紹介した様々な分割・民営化反対のための取り組みは、この間に展開された市民運動のほんのわずかの事例を列挙したに
すぎない。実際には、全国各地において、5000万署名運動と結びつきながら多種多様な反対運動シンポジウムやキャンペーン、あるいは市民集会や自治体への請願、要請の運動として取り組まれていったのである。そして、これらのいわば草の根の市民運動は、1986年7月の国民会議の結成に集約されることとなる。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 148

久々に更新させていただきます。

今回も、引き続き国鉄分割民営化前後の記事をアップさせていただきます。

本格化する財政再建論議

国鉄の財政悪化を受けて、国鉄財政再建が本格的に議論が行われていました。

4年前の昭和50年に行われたスト権スト、更には昭和51年の大幅値上げ(初乗り旅客運賃が30円→60円)平均50.4%が行われ、この頃から本格的な国鉄離れが始まりました。

その結果、旅客以上に貨物のトラックへの移行が進むなど徐々に国鉄の貨物輸送はジリ貧の状況に追いやられていきます。
昭和52年には、国鉄運賃は法定制から運輸大臣の認可制に変更されることとなり、昭和53年5月には運賃改訂を申請、その後毎年のように運賃は改定されていきました。
それとともに、最後の再建計画と言われた国鉄再建計画が実施されることとなり、貨物列車の減量化などが進められ、昭和57年には旅客・貨物共大幅な減量ダイヤとなりました。特に貨物輸送の減少が大きく、数多くの機関車が休車として機関区に留置されることとなり、これに伴い機関士も余剰となったことから、動労では職場を守るという観点から、当局側にすり寄る施策を取るようになったの波ご存じの通りです。

昭和53年5月、法定制から認可制に移行後の初めての運賃改訂

運賃改定を申請 5/11

国鉄は、福永運輸相に対して旅客・貨物の運賃・料金を平均約15%値上げする改定案を申請
改定は2年ぶりで、最近の輸送市場、需要動向を分析したうえで、おおむね1年分の経費増加額に見合う額を目途にしている
実施時期については、国鉄としては当初7月1日を目途とし、増収額2,539億円(増収率15%)を見込んでいる
国鉄があった時代 昭和53年前半編から抜粋

昭和53年11月には再び平均15%の運賃改訂が行われるとともに、その後毎年のように経費増加分を運賃改訂で補ったため、60円に倍増した、昭和51年以降、初乗り運賃は、60円→80円→100円→110円と値上げを続けました。

国会でも問題となった、顕著な国鉄離れ

特に昭和54年以降は、旅客の国鉄離れも顕著になり、国会参議院でも「運輸委員会国鉄問題に関する小委員会」が開催されるなど、非常に国鉄財政再建問題は大きな問題となりつつありました。

短期間の内に三倍近い運賃、(30円→80円(S53改定時)に変更され、貨物輸送にあっては、前時代的なヤード系輸送が嫌われ、トラック輸送が更に加速することとなり、国鉄では一層の無人化や貨物取扱駅の集約などが行われることとなり、国鉄末期には余剰人員(いわゆる過員状態となりました。

そんな中、最後の再建計画として制定された法律が、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法であり、条文では以下のように書かれています。

第二条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

と明確に昭和60年度までに経営の健全性を確保するとされています。

実際に特定人件費などを除けば昭和59年度には幹線系で収支均衡を達成し、昭和60年度には地方線区も含めて黒字決算になっていたわけですが。すでに再建監理委の方針が示されていたこともあり、そのまま分割民営化路線を突き進むこととなったのはすでに多くの皆様もご存じの通りです。

参考: 法律第111号 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法

昭和54年には、参議院で 雲遊委員会国鉄問題に関する小委員会の詳細は以下のblogを参考にしてみてください。

参考リンク:第87回国会 参議院 運輸委員会国鉄問題に関する小委員会 第1号 昭和54年5月30日

地方ローカル線廃止に関する地域の不安を煽ることで、実際に「住民の足を守る会」などの地域共闘組織が立ち上がりましたが、地方自治体も漠然とした不安はあるものの未だ現実問題として捉え切れていないものがありました。

地方の鉄道輸送は国鉄が行うものであり、地方自治体は積極的に関わらないものというのが基本的な考え方であったのもこの時期の特徴でした。

実際に、地方交通線の収支は悪化し続けており、輸送量の減少等で収支は急速に悪化していきます。

地方でのローカル線廃止反対決議が起こるも

国労的な視点では、地方での反対決議が起こったと記述されていますが。

国労は、1981年1月には「国鉄再建についての要求」を国鉄当局にたいして提出していたが、この要求のなかで、「地方交通線の切り捨ては地域住民の足を切り捨て、また、地域の産業、経済、文教等の面を含め地域社会の破壊計画である」と指摘し、「地方交通線の廃止政策に反対する」という立場を鮮明にした。そして、地方交通線の廃止を阻止するために「住民の足を守る会」などの地域共闘組織が全国の各地に結成されていった。

それまで、地方のローカル鉄道として国鉄が運営している事が当たり前であることから、現状の変更に対する反対といういわば、現状維持を求める反対という程度であったと推測されます。

実際に、基幹鉄道輸送は国が行うものであり、国鉄=国がそれを担っていると地方時自体は考えているわけで、国鉄が独立採算性の名の下、収支均衡を求められ、かつ相反する公共性を求められてきたことはあまり意識していなかったのではないかと考えます。

この辺はあくまでも個人的な私見であることは最初にお断りしておきます。

特別措置法は、ローカル線の廃止を言明

日本国有鉄道経営再建促進特別措置法では、第4条第2項第三号に以下のように記述されています。

第四条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

三 輸送需要に適合した輸送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

これにより、ローカル線を廃止することが明言されるわけで、廃止の他、地方自治体への譲渡が法律で示されます

 

地方交通線の貸付け及び譲渡)

第十二条 日本国有鉄道は、日本国有鉄道法第四十五条第一項の規定にかかわらず、地方交通線の貸付け又は譲渡を受けて地方鉄道業を営もうとする者に対し、政令で定めるところにより、当該地方交通線を貸し付け、又は譲渡することができる。

地方自治体にしても、こうしたことは初めての事例でもあることから、上記のような現状維持を求める反対としての反対決議が起こったと考えるのがより素直ではないかと考えるわけです。

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第四節 分割・民営化に反対する国民運動
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├○ 一 地方議会の反対決議 │
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 先にも述べた5000万署名運動とならんで国労は分割・民営化反対の国民世論、多数派の形成をめざす多様な運動を展開した。
1984~1985年の時期を中心に展開された、全国の市町村自治体野議会におけるローカル線切り捨て反対や国鉄の分割・民営化に反対する地方議会の反対決議が広がっていった。
1980年(昭和55)11月、国鉄再建法案が国会で可決され、翌12月に公布された。そしてこの法律によって赤字ローカル線特定地方交通線)の整理・廃止についての手続きが定められた。
国鉄の分割・民営化に反対する地方議会の反対決議という問題の発端はこの法律の制定を契機とするものであった。そして、国鉄再建法の下で、1981年5月に国鉄当局は「経営改善計画」を運輸大臣に提出したが、この計画のなかで貨物部門の合理化や7万5000人の人員削減計画と並んで、赤字ローカル線の整理・廃止がひとつの柱として位置づけられることとなった。
 これに対して、国労は、1981年1月には「国鉄再建についての要求」を国鉄当局にたいして提出していたが、この要求のなかで、「地方交通線の切り捨ては地域住民の足を切り捨て、また、地域の産業、経済、文教等の面を含め地域社会の破壊計画である」と指摘し、「地方交通線の廃止政策に反対する」という立場を鮮明にした。そして、地方交通線の廃止を阻止するために「住民の足を守る会」などの地域共闘組織が全国の各地に結成されていった。
(以上第二章に上述)
 しかし、特定地方交通線の廃止という不採算部門からの撤退という考えは、1982年7月の臨調第三次答申や再建監理委貝会にも一貫して継承されていくこととなった。
 かくしてローカル線を利用する住民にとっては日常生活に不可欠な交通手段を奪われるという不安が高まった。同時に、国鉄労働者にとっても大規模な人員削減によって職場そのものがなくなってしまうという深刻な事態が現実のものとなってきたのである。国鉄の分割・民営化に反対する国民運動が、国鉄労働者と地域住民の共同闘争として展開され得る社会的基盤はここに存在していたといってよいだろう。そして、このような状況を背景として、分割・民営化に反対する地方議会の決議が、全国各地に結成された共闘組織を支えとして、広がっていったのである。
 1985年7月26日監理委員会「分割・民営化」による国鉄再建という主旨の最終答申を中曽根首相に提出する直前の7月24日現在、国労本部に報告された集約結果によれば、県議会での反対決議が12県、市議会での反対決議が120市、町議会での反対決議が319町、村議会での反対決議が54村で、総計515の市町村自治体が反対決議を採択していた。このうちの102の自治体が1985年6月の地方議会での決議となっている。なお、このような地方議会での分割・民営化反対の決議への動きは、早い所では1982年から始まっており、先の集計結果は1982年~1984年の時期に行われた反対決議は含まれていないので、1986年7月の時点では、先の数字をはるかに上回る反対決議が行われていると思われる。ちなみに、国労が1987年1~2月の時点で集計した結果によると、全国で850の市町村議会が反対決議を行っていた。
 これらの地方自治体の反対決議において特徴的なことは、北海道の釧路や旭川ではほとんどの市町村議会で決議がなされていることや、四国では全部の県議会が反対決議を行っていることからうかがえるように、ローカル線が住民の日常生活にとって重要な役割を担っている地域の自治体が反対決議の中心となっていることである。また、その決議も、各々の地方議会内部の与野党間勢力のバランスや地域的な利害関係を反映して、決議の内容は多様なものとなっている。例えば、長野県の事例を挙げれば、「国鉄分割・民営化に反対する意見書」(堀金村)、「貨物駅廃止に関する意見書」(松川町)、「国鉄ローカル線の維持と運行確保に関する意見書」(長野県)、「国鉄小海線の存続に関する意見書」(佐久市)、といった主旨の決議になっている。しかし、いずれにせよ、これまで説明してきたような地方議会の反対決議や意見書は、国鉄の分割・民営化を阻止していく世論を生み出す大きな契機となったのである。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 147

久々に更新させていただきます。

今回も、国労の資料を中心に当時の国鉄分割民営化の頃の様子をご覧いただこうと思います。

国鉄では、昭和60年7月29日から8月2日にかけて行われた、国労の定期大会で決定した、5000万署名運動を展開して来たわけですが、既にこの時期には分割民営化ありきの方向に世論は誘導されていました。

当局は雇用安定協約を当局側が交わさず、揺さぶりをかけるものの、国労の構成員は未だ20万人近くを維持しており、国労とすれば、まだまだ逆転は可能であると考えていたようです。

この辺は、これからは「公企労レポート」なども参照しながら、お話を進めさせていただきます。

 

国労の的大会の前後のお話をさせていただくと、国鉄総裁が元国鉄OBの仁杉氏から元運輸事務次官の杉浦氏に中曽根首相の肝いりで交代したわけですが、これは分割民営化の債権管理委員会の方針に明確な態度を示さない杉浦氏に対して放った刺客のようなもので、国鉄の組織は一気に分割民営化に舵を切らざるを得ない雰囲気となりました。

 

7月10日付の公企労レポートでは、国鉄総裁が組合幹部それぞれと面談していますが、国労としては分割・民営、首切り阻止を最重点の運動とするとして総評への応援なども求めています。

結果的には、動労とも共闘を進めるためにも。総評に動いたもらいたいとして、国労動労に対して、3つの条件を示したとされています。

  • 共闘成熟のために共通の要求を基本とした共同行動を進める

  • そのために双方の信頼関係の回復に努める

  • 雇用の確保を最大限に考えていく

ただし、当時の国労動労はスト権ストの頃や、生産性運動の頃のような共闘とは行かず、動労からすれば「決定できない国労」「現実を見ていない国労」という点で非常に不信感を持っていたようです。

特に、動労が雇用の確保という点から「余剰人員対策にも積極的に応じることで、雇用の確保が出来る」としていたのに対して、国労の考え方では、「当局は必要とあれば、組合側が協力体制を取っても。首切りが行われるとしており、全く双方の主張は平行線どころか、全く違う空間を走っているように見えます。

 

さらに、国労としては最後の砦はストライキを辞さないとしており、動労に対しても積極的に働きかけるとしています。

しかし、昭和61年7月の衆参同日選挙による300議席を超える自民党圧勝で国鉄分割民営化は既定事項と言って良い状況となり、動労国労の温度差は更に大きくなりました。

当時、国労と動労では大きな温度差が生じていた事が当時の資料からわかります

当時、国労動労では大きな温度差が生じていた。

国労は、分割民営化を国民運動と捉え、自らは黒子に徹するとしていますが。

それまでの、ストライキの数々の中で国鉄問題に関心を示してくれるかと期待しているようですが、結果的には国労の期待は裏切られることとなりました。

当時の国労動労の当時の空気を知っていただいた上で、国労の資料から読み取っていきたいと思います。
国労は、最大の成果として3ヶ月で500万人の署名を集めたことで一定の関心と職場が団結したと自画自賛しているように見えます。
最も、現在地域インフラとしての鉄道と言うことに関して考えるとき、
  • ローカル線廃止反対など「国民の足を守る」
  • 国鉄改革とは国鉄の破壊と独占資本への国鉄の払い下げ、利権あさり

下の項目に関しては、いささか左翼的発想と言えるのですが、改めて右派・左派と言う考え方ではなく、国益という視点で考えたとき、短期的に国鉄が赤字だから売却するのは、「独占資本への国鉄の払い下げ」という発想では、当時の保守と呼ばれる人たちには受け入れられなかったであろと考えられます。実際に総括の中で、項目③にあるように

③ この闘いは、総評を中心とする全国各地の労働組合に支援され、民主勢力との連帯によって前進することができた。

とあるごとく、民主勢力との連帯という点に留まっており、国民的世論の形成に至っていなかったと言えます。

少なくとも、ローカル線の存廃問題が議論された最後の再建法の時点で国労が国民的運動として国民のための運動としてストライキで訴えるという手法でなかったならばまた違った側面になっていたように思えます。

 ① 500万人を超す署名をわずか3カ月余の短期間で集めたことは、分割・民営化反対の国民運動の頂点を形成したものである。

 ② この闘いは、ヤミ・カラ攻撃や親方日の丸論、労働者のストが赤字の元凶であるという、いわゆる国賊論や職場交渉権の一方的剥奪、職場専制支配に抗して団結を強め粘り強く闘ってきた国労国労組合員の不退転の決意と闘争の成果である。

 ③ この闘いは、総評を中心とする全国各地の労働組合に支援され、民主勢力との連帯によって前進することができた。

 ④ この闘いのなかで、行政改革の反国民的本質が明確となり、国鉄改革とは国鉄の破壊と独占資本への国鉄の払い下げ、利権あさりであることも明らかとなった。

 ⑤ 監理委員会答申の矛盾が国会で追及され、マスコミで暴露され、これが真の国鉄改革なのかという疑念が国民のなかに浸透したこと。

このような闘いの成果は、総評傘下13単産による反行革共闘の推進、国鉄闘争を支援し連帯する共闘組織の活動、ローカル線廃止反対など「国民の足を守る」共闘運動を基盤とし、総評と地県評に国鉄再建闘争本部が設置され、広範な諸階層の結集を容易にした。そして、北海道、四国、九州をはじめ、全国いたるところで労働者の連帯と共闘が大きく前進した。他方、国労組織内では、この運動が職場・分会活動の活性化と組織づくりに大きく寄与し、家族会・退職者組合との結合をもたらし、地域住民との結びつきを強化して企業の枠を超えた運動を可能としたと総括された。

国労は当時最大の労働運動組織総評の力を背景に、国鉄「分割・民営化」を最大の課題として反対運動を続けて、早期に5000万人署名運動を達成したとして総括していますがそこに驕りはなかったのか?と言う視点から見ていく必要もありそうです。

国労は必ずしも一枚岩でない、地域に見られる温度差

実際に。5000万署名運動は総評の協力もあり強力に進められ、それに対しては以下のように総括しているものの、分会での温度差など国労が必ずしも一枚岩ではない(この点は、国労職能別組合とも言える動労とは対照的であり、ある程度やむを得ないところもあるのですが、結果的に結成当初からの派閥争い及び結果的に決められない組織(玉虫色の決着で終わらせる)は、この時点でも残っていたように見えます。

 さらに、今後の国労運動の克服すべき課題としては、以下の諸点が指摘された。

 ① 「分割・民営化反対」か「分割反対と民営的手法による効率化」という基本戦略の統一が不充分なため運動に一部混乱を生じたこと。

 ② 省略

 ③ 分会活動の不活発、活動家の不足によって部分的にではあれ、組合員の参加が不充分であったこと。

自らも指摘しているように、基本戦略の統一が不十分であったことを認めているほか、分会活動が不活発で有ったことや活動家が少ないといった問題を指摘していますが、こうした点も国労の性格(組織が多様な意見を受け入れることで結果的に曖昧なものとなってしまうことを示していると言えます)

守るべきものは職場なのか。政治なのか?

更に、今回の運動に対する総括を見ていますと。

省略した2番目の項目では、以下のように書かれていました。

② 民社党、鉄労が自民党と結託し、国鉄の「分割・民営化」促進の地方議会決議が一部の自治体で採択されたこと。

鉄労が民社党自民党と結託して地方議会で国鉄「分割・民営化」促進の議決を進めたとされているのですが。民社党*1や鉄労がと批判している点で、国民的運動という中で特定政党に対する批判を行うことで、国民的信頼を得にくかったと考えてしまいます。

最後に

当時の世論を概括するとき、国鉄という組織は潰せないと言うのが常識であり、その時点でローカル線廃止反対を地方と連携して組合が積極的に推進することも、ストライキではなく地方へのサービス向上運動という視点で行うことは、国労自身では難しかったと言えます、その背景には国労が、駅業務から非現業務全体を擁し、更に組織内での乱立する派閥(右派と呼ばれるグループから左派と呼ばれるグループ更には、共産党(初期の共産党を支持するグループ)を中心としたグループもあれば、新生民同派(民同右派)と呼ばれるグループなどが乱立していたわけで、こうした多数の意見が存在することが結果的には国労は、重要事項に関して決定しずらい組織になっていました。

この点は、動労国労から機関車労組として分裂した頃から動労には一つの守るべきものがはっきりしていた(機関士を中心とした動力車乗務員の職場確保)のとは対照的であり、その結果動労は、積極的にその動きを察知して地方における頻発運転の提案や、貨物増送運動などの方策が取り得た点と比べると非常に対照的に見えます。

 

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第三節 5000万署名運動

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├○ 三 5000万署名運動の成果と総括 │

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 ① 500万人を超す署名をわずか3カ月余の短期間で集めたことは、分割・民営化反対の国民運動の頂点を形成したものである。

 ② この闘いは、ヤミ・カラ攻撃や親方日の丸論、労働者のストが赤字の元凶であるという、いわゆる国賊論や職場交渉権の一方的剥奪、職場専制支配に抗して団結を強め粘り強く闘ってきた国労国労組合員の不退転の決意と闘争の成果である。

 ③ この闘いは、総評を中心とする全国各地の労働組合に支援され、民主勢力との連帯によって前進することができた。

 ④ この闘いのなかで、行政改革の反国民的本質が明確となり、国鉄改革とは国鉄の破壊と独占資本への国鉄の払い下げ、利権あさりであることも明らかとなった。

 ⑤ 監理委員会答申の矛盾が国会で追及され、マスコミで暴露され、これが真の国鉄改革なのかという疑念が国民のなかに浸透したこと。

 また、このような闘いの成果は、総評傘下13単産による反行革共闘の推進、国鉄闘争を支援し連帯する共闘組織の活動、ローカル線廃止反対など「国民の足を守る」共闘運動を基盤とし、総評と地県評に国鉄再建闘争本部が設置され、広範な諸階層の結集を容易にした。そして、北海道、四国、九州をはじめ、全国いたるところで労働者の連帯と共闘が大きく前進した。他方、国労組織内では、この運動が職場・分会活動の活性化と組織づくりに大きく寄与し、家族会・退職者組合との結合をもたらし、地域住民との結びつきを強化して企業の枠を超えた運動を可能としたと総括された。

 さらに、今後の国労運動の克服すべき課題としては、以下の諸点が指摘された。

 ① 「分割・民営化反対」か「分割反対と民営的手法による効率化」という基本戦略の統一が不充分なため運動に一部混乱を生じたこと。

 ② 民社党、鉄労が自民党と結託し、国鉄の「分割・民営化」促進の地方議会決議が一部の自治体で採択されたこと。

 ③ 分会活動の不活発、活動家の不足によって部分的にではあれ、組合員の参加が不充分であったこと。

 次いで、5000万署名運動の成果を引き継いで、当面の闘争方針が提起された

 ① 総評・公労協・全交運の闘う方針の徹底と組織の確立をはかる。

 ② 署名の「成果・力」を政治的・社会的に強めるため、国鉄問題と平和・民主主義の課題を結合し、全国民的な共闘の結集をはかる。

 ③ 広く学者・文化人・ジャーナリストなどを結集し、地方の「足を守る共闘組織」を中心に利権あさりを監視、摘発する。

 ④ 政府の「分割・民営化」の立法化を阻止するため、国会内で社会党共産党に「分割・民営化」反対の立法葉の策定を要請する。

 ⑤ 国会で監理委員会答申の矛盾を暴露して追及し、国民への宣伝を強める。

 ⑥ 住民投票の請求運動を組織するよう総評、社会党共産党その他の民主団体勢力に働きかける。

 ⑦ 「国鉄に働いた経験のあるすべての人」へ「国鉄を守る」運動に結集するよう呼びかける。

 ⑧ 「分割・民営化」法案の上程時、審議のヤマ場、強行採決の動向など、ヤマ場にはストライキ・非協力・順法闘争を組織する。

 ⑨ 世界の鉄道労組との連帯をいっそう強めるための行動を行う。

続く

*1:社会党右派が分裂したグループで現在の国民民主党が政党的には最も近い

国鉄労働組合史詳細解説 146

はじめに

国鉄分割民営化の方向性が示され、動労国労とは距離を置き始めた時代にあって、国労は分割民営化反対をスローガンに掲げていました。
この時期は、若手職員などが将来に不安を感じて自殺などもありましたが、まだまだ国労国鉄の中でも最大人員を誇る組織であり、総評もかなり力を入れて応援していました。
世論は、前年のNTTの民営化成功を受けて、民営化には比較的好意的であり、分割に対する不安は持っていたものの、国鉄の赤字を解消するには競争させるべきだ・・・その為に分割するのだと言う論理は冷静に考えれば非常の矛盾した内容でも有りました。
すなわち、前年に民営化された、専売公社も電電公社も分割はされず、それぞれJT・NTTという全国一社の民間会社として誕生したのでした。 そして、電電公社の場合は外圧もあったと言われていましたし。なんと言っても通信事業を独占していましたので、言わば優等生のような存在でした。 それでも、民営化でサービスが良くなったと思わせる宣伝効果なども加わり、世論は公企業の民営化は、メリットしかもたらさないという錯覚を持ったわけです。

当時の雰囲気は、NTT優等生、国鉄劣等生、郵政・・・自分は郵政省直営だから関係無い。むしろ国鉄のように分割されないようにしないといけないなぁということで、当時の郵政職員には、全くといって良いほど、民営化の危機感は持っていませんでした。 そんな時代の中、国労は反対署名運動に取り組むこととなりました。 国労組合員が一丸となって署名運動を推進 本文では、「南近畿地本からは、次のような報告と意見が述べられた。すなわち、同地本では国労組合員1人100人の署名獲得目標にたいして、大阪、和歌山、三重、奈良県支部で約64万5000人、110・1%を達成した。」という記述が見られますが、南近畿地本は言うまでもなく、天鉄局管内になります。 そこで思い出すのは、阪和線を利用したとき、車掌から国鉄分割民営化反対の署名をお願いしますと言うことで頼まれてサインした記憶があります。もっとも、こうした行為は広い意味では職務専念違反になるのかも知れませんが、当時から民営化はまだしも分割には異議を感じていたので、署名に協力した事を思い出しました。 ですので、南近畿地本は案外そうした、署名運動も行われたので、目標に対して110%という。1割も多い、64万人以上の署名が集まったのではないかと思います。

国労の主張はある意味正しい

単なる署名運動に終わらせないために、政府や自民党の本格的な組織分断・国労の孤立化攻撃にたいして、国民的多数派形成への基盤をさらに強めていくことが必要であるとの主張がなされた。

この主張は、組合としての方向性は間違っていなかったかも知れませんが、数年前までは、要求貫徹のためにストライキを行っていた組織が、今度は組織防衛のために反対運動を行うというのは、世論的には受け入れにくかったのはやむを得ないと言えそうです。それでも、まだまだ世間では、分割民営化を手放しで喜ぶというわけではなく、まだまだ問題が有るのでした。

当時の世論というか、世論を誘導する新聞の社説には、国鉄の分割民営化は本当に可能なのか。はたまた、土地の売却は国民財産の切り売りで有り本当にそれで良いのかと言った論調も見られます。

すなわち、当時の世論では本当に分割民営化は正しいことなのかという迷いが多かったと言えます。

以下は、国有鉄道5月号(国鉄部内紙)最近の社説から引用したものです。

少し長いのですが、当時の世論を知ると言うことで引用させていただきます。

世論は、分割民営化にはまだまだ慎重

当時の世論というか、各新聞の論調は深海者に関する不安、特に現在一番大きな問題となっている三島会社についての不安が述べられている。

実際に、三島問題は再建監理委員会でも問題に上がったわけで、その解決策として、運用基金を導入したわけですが、当時の公定歩合は7%程でしたので、普通に国債などを購入しておくだけでその利子で赤字を補填できるとしていました。

公定歩合

公定歩合の変遷

しかし、その考え方はその後の金利の自由化の進展等もあってその後金利は低下、現在JR各社の存続特に四国・北海道などのあり方が問題となっていますが、この時に本当に民営化はまだしも分亜k津する必要性があったのでしょうか。

当時の各新聞の社説を見ても、本当に大丈夫なのかという論調が目立ちます。

新会社の経営問題については、とくに3島の旅客会社や貨物会社の経営について、各紙とも取り上げています。

各新聞社の社説は概ね国鉄分割圧民営化に懐疑的

各新聞社の社説は概ね国鉄分割圧民営化に懐疑的

以下、国鉄部内紙。国有鉄道1986年5月号、最近の社説から引用させていただきます。

国鉄改革法の第 4 条は利用者の利便の確保及び適性な利用条件の 確保について特に配慮するとして いる。運賃の通算制や遠距離逓減制の維持をうたったものである。そのうえ貨物会社との面倒な関係もからむ。旅客会社の自主性は相当に制約されざるをえず、分割の趣旨が貫徹しない] (朝日 3 . 1)
本州はともかく3島の旅客会社は 、本当に経営的に成り立つのか。いわゆる三島基金 が1兆円あり、この運用収入で赤字を補てんすることになっているが、これで十分でなければ、国や自治体からの助成を求めるのか、赤字ローカル線を切り捨てるかしなければならない。やってみなげればわからない、ですむ話ではない」 (毎日 3.1)
北海道旅客輸送や貨物輸送など、かつて構造的に赤字を生むとされた地域や分野での経営が本当に成り立っていくのか」(日経 3.2)
分割会社、とくに北海道、四国、九州の各社は経営が成り立ち、将来完全民営にまで進めるのか地方交通線は本当に守れるのか。運賃値上げで地域住民を圧迫しないか」 (東京 3.1)
としているほか、 貨物会社についても、「分離独立して全国一本の会社となる貨物会社だが、その前途は心もとない。鉄道は本来、貨客一体であり、貨物を分離させること自 体無理がある。 いずれ貨物は廃止する方針だとすれば、環境上の問題をはじめ 国民に相当な発言権がある」(毎日 3.1)
「貨物鉄道会社の安定経営に問題はないのか、なお疑問な点が数多く残されている 」 (東京3.1)
と論じるなど、依然として、疑問を払拭しえないという論調がある。この点については 、具体的な実務的な裏付けを明らかにしていくことで、自ずから国民・利用者にご理解い ただけると考えている 。

と有るように、当時の世論では「国鉄分割民営化に対する不安」が述べられており、特に検討段階から問題視されていた三島会社の経営安定基金が機能するのか否か。

実際に、1991年頃までは5%程度の公定歩合と言うことで、その運用益で十分とは行かないまでも基金から発生する利息で赤字を補填できると思われていました。

また、多くの特定地方交通線を転換した路線でも、運用基金としてプールするという動きもありましたが運用益の低下で基金取り崩しを行い。最後は廃止という道を辿った路線も少なくありませんでした。

そして、三島会社以外は、多角経営などで経営を軌道に乗せることが出来たものの、三島会社の内、九州は不動産での収益が大きく、上場させることが出来ましたが、北海道・四国は上場の目処すら立っておらず、むしろ経営自体に存続が危ぶまれる状況に追い込まれているのは既に見てきたとおりです。

 


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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第三節 5000万署名運動
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├○ 三 5000万署名運動の成果と総括 │
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 5000万署名運動は分割・民営化反対の国民世論を形成していくうえで大きな役割を果たした。国労はこの運動を、1986年1月28日に国労会館において以下のように総括した。
 まず、この拡大中央委員会では、5000万署名運動の取り組みを第一線で担った各地方本部から闘いの成果と中間総括が報告された。報告は、釧路地本、旭川地本、札幌地本、新潟地本、高崎地本、水戸地本、千葉地本、東京地本、長野地本、静岡地本、名古屋地本、北陸地本、大阪地本、南近畿地本、福知山地本、米子地本、岡山地本、四国地本、広島地本、門司地本、大分地本、熊本地本、鹿児島地本の総計27の地方本部から行われた。これら各地本における5000万署名運動の総括は各々の地域の現実を反映して多様な総括とならざるを得ないが、ここでは、いくつかの地本での総括や意見を紹介しておこう。
 北海道では、全道労協は全道キャラバン行動や全道市・町村長に対して、「分割・民営」反対、北海道の国鉄を守る署名を要請したが、大多数の首長が反対署名に応ずるなど、5000万人署名に大きなはずみをつけることができた。この成果をふまえて、全戸ローラー作戦や粘り強い説得活動が展開された。とくに、5人組、小集団を中心に行動した分会は、ほとんどの分会が予想以上の行動を発揮し、また家族ぐるみ、家族会独自で行動した分会が大きな力を発揮したという主旨の報告がなされた(釧路地本・釧路支部)。
 また、青函地方本部からは、署名運動の成果として署名推進委員会が設置され、支部・分会の指導性が充分に発揮されたことや監理委員会答申についての学習会や職場集会を開催し、組合員の意識の向上や分会活動の活性化が促進されたこと、対象地域における全戸訪問では国鉄問題についての地域住民の関心が高まり、国労の主張が理解されたことが報告された。また、取り組みの教訓としては、多くの人々が分割・民営化問題に耳を傾け、署名に心よく応じてくれたこと、分割・民営化反対の国民世論をつくるうえで、地域活動の重要性が実感としてもよく解ったこと、他の労働組合の積極的支援を目のあたりにみて、労働者の協力と連帯を強く感じ、地域活動の意義が理解できたとの発言が続いた。最後に、署名運動の反省点としては学習活動が不充分であったため、分割・民営化攻撃の狙いについて充分な理解を得られるような説明ができなかったため、署名への協力を断わられる場合もあった
こと、機械的な動員の割り当てが行われ、キメ細かな対処や配慮に欠けていた場合もあったことが指摘された。
 南近畿地本からは、次のような報告と意見が述べられた。すなわち、同地本では国労組合員1人100人の署名獲得目標にたいして、大阪、和歌山、三重、奈良県支部で約64万5000人、110・1%を達成した。この運動の意義は、従来の国労にみられる組織内的運動の殻を破り、地域活動を主体とする全国民的運動として本格的に取り組んだ画期的な闘いであったこと、国労が1人100人の署名獲得運動を主体的に受けとめ、組織の総力を結集したことで、名実ともに?家族ぐるみ?の運動として展開された。これらの貴重な教訓を前提として、また、単なる署名運動に終わらせないために、政府や自民党の本格的な組織分断・国労の孤立化攻撃にたいして、国民的多数派形成への基盤をさらに強めていくことが必要であるとの主張がなされた。
 以上、いくつかの地本からの報告や意見を紹介したが、こうした各地本からの闘いの中間総括と意見をふまえて、第145回拡大中央委員会派、5000万署名運動の総括と今後の闘争方針を提起した。

続く

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国鉄労働組合史詳細解説 145

久々に更新させていただきます。

 

余剰人員対策として、国鉄では直営店舗などの開設が行われ、関連事業収入のそうかと言うことでの多角化経営が行われることに

国鉄では、仁杉総裁が更迭され、杉浦総裁が中曽根首相の意向を汲んで最後の国鉄総裁として分割民営化を進めることを目的として送り込まれたわけですが、国鉄当局としては強力な合理化により、過員を生み出し(国鉄当局の表現では余剰人員)、多くの人材を直営店などの関連事業に振り分けることとなりました。 当時の国有鉄道という雑誌〈国鉄現業機関向けの雑誌〉などを参照しますと見返しページなどで、直営店の様子などが掲載されていました。

  国有鉄道 1985年12月号 から引用

直営店などの関連事業 国有鉄道 1985年12月号 から引用

こうした関連事業以上に、発生する過員にあっては一時帰休や退職前提の休職、出向などの施策がとられました。

この辺の事情を、大原社会問題研究所の日本労働年鑑 第56集 1986年版 

第一部 労働者状態

 II 産業合理化と経営・労務

から引用させていただきます。

さらに、国鉄当局は八五年三月のダイヤ改正で、駅の無人化(全国の駅の六〇%を上回る)、ホーム要員の削減、窓口廃止、貨物車の緩急車廃止、車検周期の大幅延長などを実施したうえ、機関士や運転士の効率運用を目的として、従来の一日六時間四〇分、週四〇時間勤務を、週四三時間以上に延長したり、手持ち時間の圧縮、食事休憩の短縮、休憩時間の長さと回数の縮減などの合理化を実施した。
こうしてつくりだされた「過員」は「過員センター」(要員センター、職員センター、業務開発センターなど)に集められ、教育訓練をうけ、臨時的作業に駆り出されたり、ホームの掃除や草むしりなどの雑務、無人駅の特別改札、団体客募集のためのチラシ配布、戸別訪問、切符のセールス、駅構内でのジュース販売などに従事させられている。

こうして、駅構内などの用地を活用した直営店や、特別改札の実施なども行われました。特に、貨物輸送の大幅な削減による機関車乗務員の減員は大きく、こうした煽りを受けて、機関士が乗務できないと言う事例も多々発生することとなりました。
こうした当局側の動き(政府からの強い意向)も有ったわけですが、国労としては積極的な宣伝活動で世間を味方に付けられると読んでいたわけで、それが5000万署名の実行であり、全国キャラバンなどの実施であったわけです。

当時の世論は国鉄改革をどのように見ていたのか

国鉄の分割民営化に関しては、昭和60年に実施した世論〈義ラフの形を変えて再掲)してあるように、分割には再検討を要するという意見が約4割有ったのですが、国鉄当局も政府も更には、組合もこの点を見誤ったというか、この点を国労が国民運動としていたらまた違った展開になっていたかも知れません。すなわち、国鉄の分割民営化6分割を積極的に認める世論は実は1/4なのですが、分割には検討を要するという人も賛成派と見做せば、実に2/3以上が分割民営化に賛成であるという理屈も成り立つわけです。

そこで、分割民営化のために送り込まれた杉浦総裁とすれば世論は、国鉄分割民営化を認めたとし、鉄労は分割民営化を容認して推進方向に大きく舵を切ることとなる。

更に、動労も当初は分割・民営化は反対のスタンスではあったものの、過去の傷(機関助士反対闘争で松崎が中心となって行った闘争で、動労は解体寸前まで行ったことの反省から、雇用と組織を守ることを大前提に方針を大転換することとなり、この辺が国労組合員から見れば、鉄労や動労の裏切りと写ったのであろうと言えます。

長期債務の返済に関しての国民の関心はどうだったのか

同じく、上記の世論調査による結果は以下の通りであった。

国民負担に関しては反対という意見が半数を超えており、特に国鉄の努力が不十分で今後も期待できない、もしくは国の責任で国民負担には反対という意見が、6割近く有るわけで、国鉄を見る世間の目はかなり厳しいと言わざるを得ないと。国鉄本社でも認識しています。

前述の通り、鉄労・動労は組合員を守ると言うことから、分割民営化の方向に大きく舵を切ることとなり、特に「鬼の動労」と言われた動労は一気に急転回して総評からの離脱、更には鉄労と共に労使協調宣言へということで国鉄改革労働組合協議会を結成(JR発足後は、全日本鉄道労働組合総連合会として、発足)して雇用を守ると言うことに全力を尽くすこととなりますが。

昭和60年当時は、まだまだ国労は最大の組合員数を擁しており、国民に訴えかけることでまだまだ逆転劇は可能だと考えていたようです。

実際に、国労の中には多くの派閥もあり、一筋縄ではいかないという点も有ったわけですが、それでも国労の中にはまだまだ20万人近くの久美委員がいるのだからと言う驕りもあったかも知れません。

しかし、当時の世間は国鉄の赤字に対する処方箋としての分割民営化に関しては、民営化は容認するが、分割は慎重に行くべきだという意見が4割有ったわけですから、民営化は容認しても分割だけは阻止すべきだという運動をしていたら、歴史にIFはないもののまた異なった形になっていたかもしれません。

もっとも、当時の世論は、長期債務返済のために土地を売却することに関しては8割以上の人が民間もしくは、公共機関への売却をするべきであるとして、当事者である国鉄・及び新たに設立される新会社為に使うべきと言う意見は1割ほどであったことが覗えます。

国鉄が土地を売却する場合は、その売却先はどこにすべきか

参考:国有鉄道1985年12月号の記事を元にグラフ作成

 

歴史にIFはないのですが、国労が民営化を認めるものの、分割は容認しない、土地の売却に関しては国民の財産として還元するといった形で世論に訴えていたらまた違った結果であったかも知れません。

最もこうした後知恵は、今だからこそ言えるわけで当時の考え方では、国鉄が路線を建設するのも本来であれば広い意味での公共財産である訳ですが、その辺の議論は殆どなされず、国鉄の経営は毎年大きな赤字を出しているという論調に終始したこと。

それ以前のストばかりする国鉄という印象を世論が持っていたことも、国鉄には風当たりが強くなる結果となったと言えそうです。

続く

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第三節 5000万署名運動
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├○ 二 5000万署名運動の展開 │
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 国労本部は、5月10日には、全国戦術委員長会議での意思統一にもとずき、闘争指令一号を発し、5000万署名につき「答申の矛盾と弱点を徹底的に暴露し、『分割・民営化』が国鉄改革・再建でないことを明らかにして、国民的力に転化するオルグと宣伝を強めること」を指令した。こうして具体的な取り組みがはじまった。
 まず、北海道では、5月13日に北海道労協・国鉄再建闘争本部の発足総会が開催され、地域集会や議会対策の活動も含めた署名運動がスタートした。また同時に、四国、九州地方でも運動も開始された。5000万署名運動の最初のスタートを切った北海道では、5月13日の発足総会には、国労を中心に、労働組合、政党、民主団体の代表者100人が出席した。この総会では、 特別専従体制で道民総ぐるみの運動展開をめざす  署名運動、議会対策、道内キャラバン、地域集会などの行動を推進することが決定された。また、その翌日の5月14日には、国労東京地本と国鉄労働者支援共闘会議が開催した。
 10月3~5日に熱海市で開かれた国労の全国委員長・書記長会議では、分割・民営化と地方交通線廃止を阻止する運動を強めると同時に、すでに全国的に運動が始まっている「分割・民営化」反対5000万署名運動を中心として、国労は運動成功のために?
地をはってでも?1人100人の署名を獲得する方針が提起された。なお10月4日に開催された国関労の第13回定期評議員会でも「分割・民営化」に反対し、5000万署名運動の先頭に立って取り組み、国民世論の多数派をめざす運動方針が決定された。
10月13日東京では、全国キャラバンに出発するワゴン車が釧路(北海道) と宮崎に向かった。また、この日には文化人による「人間鉄道フォーラム」が開催され、国鉄再建問題をめぐって熱心な討論が行われ、総評の闘いへの支援が表明された。
 こうして5000万署名運動はスタートした。スタートから約1カ月後の11月初旬の段階での進展状況は次のようなものであった。すなわち、北海道、栃木、石川、島根、鳥取、徳島、香川などの1三道県から報告された署名数は約360万人で、これは13道県の目標数約520万人の約38・5%の達成率であった。達成率の高かったのは大分県の56・5%、福岡県の76・3%、石川県の52%となっている。地区別にみると、福岡県では直方地区、門司地区で10月末には100%を達成し、次いで筑紫地区が100%、若松56・4%、小倉57%であった。他方、北海道では長万部地区、留萌地区、羽幌地区が100%を超えていた。また、国鉄の存在しない沖縄でも20万人署名を目標に県労協や地区労を母体とした国鉄再建闘争実行委員会が結成された。つまり、この時点における署名運動の動向の特徴は、北海道や福岡県のようにローカル線廃止計画にたいする住民の不安や反発の強い地域において署名活動が前進しているのに対して、大都市やその周辺地域での運動の立ち遅れがめだっていた。
 5000万署名運動の前半戦の約1カ月が経過した11月7日の時点で、総評は県代表者会議を、国労は地本代表・県評担当者会議を開催し、この間の運動の総括を行うとともに、これ以降の活動方針や闘争スケジュールを明確にしていった。まず、総評の代表者会議では、署名速報の発行、中央とブロックごとでの答申批判行動と集会の開催、全交運・公労協などの団体を中心とした統1署名行動日の設定を方針化した。これにたいして、国労の地本代表・県評担当者会議では、国労組合員1人100人の目標を12月10日までに達成する、5万人以上の自治体における駅頭での宣伝行動と署名活動、答申批判集会、シンポジウムの開催、地方紙を活用した意見広告運動を全国的に広げるなどの方針を確認した。
 この総評と国労の署名運動の中間総括と行動方針の提起から20日後の11月27日には、総評国鉄再建闘争本部の集計結果では、全国の署名人数は約1300万人を突破した。1月の上旬から下旬の時期以降、署名運動は全国的にも急速に拡大し発展していったのである。ちなみに、11月27日の時点における署名実績の内容をみると、闘争本部に報告された47都道府県の合計が、1327万5245人であり、この人数は最終目標にたいして26・8%の達成率となっている。また、目標の100%を超える成果を達成したのは大分県の124・5%、福岡県の105・5%、宮崎県の107・8%であり、これに続いて、北海道の63・3%、鳥取県の68%、山形県の75・6%、栃木県の64・7%であった。さらに石川県、香川県新潟県島根県が50%を超え、鹿児島県、3重県、滋賀県が50%に迫っているという状況であった。
( なお、この時点では、国労動労の独自の取り組みとして展開されていた署名目標である2150万人分は集計されていない) こうした署名運動の急速な進展はその後も継続していったが、それから約25日後の12月15日における5000万署名のいちおうの集約時には、東京・日比谷野外音楽堂で集約集会が開催された。ちなみに、この12月15日の時点では、全体で約3320万の署名が集められたが、この数字は最終的な目標にたいして77・3%の達成率となった。また、100%を突破した府県は鳥取県の135・6%を最高として、大分、北海道、群馬、福岡、宮崎、長野、山形、山口、栃木、秋田、静岡、和歌山、熊本の1四道県に及んだ。さらに、北海道、東京、福岡が200万人台に達し、大阪、神奈川、静岡、愛知、兵庫では100万人台を突破した。また、これらのなかで各県評や地区労での取り組みと一体となって活動した国労組合員も全体で約1318万人に達していた。先の5000万署名集約の集会のなかでも、これまでの5000万署名運動の到達点を「過去のあらゆる署名運動を上回る」、「多数派形勢への偉大な1歩」と評価したのであった。このような成果をふまえて翌12月21日には「国鉄再建5000万人署名全国交流集会」が東京・千代田区の社会文化会館で開催され、47都道府県から約400人の代表が参加し、全国レベルでの経験が交流された。
 このように、5000万署名運動はその総目標は達成できなかったものの、85年5月上旬から12月下旬という約3カ月の短期間内に、総評・国労を中心とした運動として、分割・民営化反対の国民世論を作り上げていくうえで大きな役割を果たした。例えば、1586年1月14日、総評は東京・全電通会館で拡大評議員会を開き、1586年春闘方針、国鉄再建闘争への取り組みなどについて協議した。この評議員会であいさつした黒川議長は、国鉄再建闘争に関して、(5000万署名運動の集約結果は)「亀井答申にたいする国民大衆の不安、不満、反対の意思表示であり、この世論を最大の武器として闘いに全力をあげる」との決意を表明した。そして、1月25日には、総評の国鉄再建闘争本部は、署名運動の成果としての3400万余名の署名の約半数の要求署名を政府に提出するとともに、この成果を国民にアピールするためのデモ行進を行った。
 その後、3月10日には、国鉄再建闘争本部は5000万署名運動の最終的な集約を行った。それによると、署名総数は闘争本部扱い、新産別の協力を含めて3500万人を突破し、総目標にたいして8・ 8%の達成率となった。47都道府県のうち、100%を超えたのは、前述した鳥取県の137・5%を筆頭に、17道県(北海道123・7%、秋田10四・5%、山形108・1%、群馬123・8%、石川103・0%、長野112・5%、静岡105・7%、和歌山102・7%、島根105・8%、山口105・3%、福岡132・3%、佐賀100・2%、長崎102・8%、熊本108・8%、大分126・8%、宮崎120・7%)であった。さらに、青森、岩手、福島、滋賀、岡山の6県が目標の5割を超え、100万人以上の署名を達成したのは300万人にあと1歩と迫った東京、200万人を突破した北海道と福岡を含め、神奈川、静岡、愛知、大阪、兵庫など8都道府県、鉄道のない沖縄でも7万人以上の署名を獲得した。

続く