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鉄道ジャーナリストblackcatこと加藤好啓の思索帳

鉄道ジャーナリストこと、blackcat、ちょっと硬めの内容を中心に時々書いてみようと思います。

国鉄労働組合史詳細解説 11

レッドパージとアメリカの動向

みなさまこんにちは、変則では有りますが本日も、国鉄労働運動史に見る社会的考察を進めさせていただこうと思います。
何分素人研究家の駄文ではございますが、よろしくお願い致します。

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終戦後のアメリカが日本に対して求めたことは、民主化(アメリカ流のという言葉を前につける必要がありますが)であり、そのためには戦前非合法とされた共産党日本共産党)を合法なものとして扱うことから始まりました、徳田球一は占領軍を解放軍と位置づけ、共産革命は近いと(共産革命というのは簡単にいえば国家の破壊であり、共産社会にあっては国という概念は存在せず、少数の労働者による人民管理が行われるべきであるというのがレーニンの考え方であり、国家は共産社会が完成するまでの一時的に存在しうるものであるという考え方になります。(そうなると、中華人民共和国という共産圏の国家がいつまでも存続すること自体おかしいんですけどね。(^^ゞ))

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画像 wikipediaから 徳田球一


これは余談ですが、アメリカとしては赤化してほしくなかった中国ですが、内戦により国民党軍が敗退していき、 共産主義勢力が優勢になるとアメリカ国内ではジャパン・ロビーが活発化し、共産党の再非合法化等が行われました
共産党が、強盗事件や放火事件などを起こした時期がこの時期と重なります。
共産党のビラなどを見るとこの時期は見事に空白になっているのはこうした不都合な事実を隠さざるをえないからだと考えます。

 

話があらぬ方向に飛んでしまったので、改めてお話を戻しましょう。
日本政府にとっても、GHQにしてみても社会主義政権を望むものではなく、ここに強烈なレッドーパージが行われることとなりました。
昭和25年6月25日に発生した朝鮮戦争(いわば、ソ連・中国とアメリカの代理戦争)により共産化の機器が叫ばれ、国内でも再び共産党を非合法化するとともにこうした活動家の解雇を行うこととなっていきました。

 

日本におけるレッドパージ


> 行政整理は、人員削減を意味しただけではなく、この整理を通じ、戦後初の国労運動の重要な一翼を担っていた共産党系活動家に対する指名解雇=レッドーパージという性格を持っていた。

国労という組織は、共産党指導者が入っていたとはいえ、中道もしくは右寄りの組織もある大家族的な組織であり、民同派が結果的にこの時期にその主流を握ったと言えましょう。
このまま、民同派が中心になって行動すれば国鉄のその後も変わっていったと思われるのですが、国鉄の労務政策はどういったわけか、こうした右派的性格の組合を遠ざけ、むしろ左翼的性格の組合を受け入れることを繰り返す結果となってしまいます。その辺は後述

> 民同派中闘は、いわゆる指令○号を各機関に発し、8月15日に中闘の補充、新運動方針の決定などを議題として中央委員会を開くことを指示した。これは、戦後の国労史に残る歴史的に不幸な指令であった。とはいえ、事実として、この中央委員会は成田で開催され、革同派の一部が加わったほかは、民同派にによって構成される新執行部が選出され、新賃金要求など新しい運動目標を決定した。

なお、こうしたレッドパージに関しては、法政大学大原社会問題研究所 日本労働年鑑に詳しく載っており、すでにネット上でもアーカイブスが掲載されていますのでそこから一部引用させていただきますと、下記のように、新聞社放送機関などに最初に襲いかかりやがてそれは燎原の火のごとく燃え広がっていったと言われています。

> 誇大で好戦的な報道ぶりは、かつて戦争できたえられたお家芸をしのばせるものが十分にある」(一九五〇年七月五日号)状態だったからである。

このへんはどのような記事だったのか今は手元にそうした資料がないのでご披露できないが、GHQによるレッドパージは最初はマスコミにそれから徐々に一般労組などへと広がっていったようですね。

法政大学大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第24集 1952年版から引用

>  一九五〇年下半期、大規模にくりひろげられた「レッド・パージ」の嵐は、まず新聞・通信・放送機関の労働者に襲いかかった。これは決して理由のないことではない。すなわち、社会党中央機関紙「社会新聞」が論じたように、「朝鮮の戦火が報ぜられてから二、三の代表的な新聞がしめしている態度ほど、われわれを悲しませ憤らせたものはない。誇大で好戦的な報道ぶりは、かつて戦争できたえられたお家芸をしのばせるものが十分にある」(一九五〇年七月五日号)状態だったからである。とくに新聞・通信・放送機関の「レッド・パージ」が、共産党中央機関紙「アヵハタ」の無期限発行停止に関するマッヵーサー指令とほぼ同時期におこなわれた事実は、注目する必要がある。

> 七月一五日および一七日の両日にわたって、大阪中央放送局で、局員一八名がとつぜん職場立入禁止を命令されたのを皮切りに、七月二八日午後三時を期して、朝日新聞社七三名、毎日新聞社五一名、読売新聞社三四名、日本経済新聞社二〇名、東京新聞社八名、日本放送協会一〇四名、共同通信社三三名、.時事通信社一六名の「レッド・パージ」が発表された。読売新聞社の書面辞令によれば、「連合軍最高司令官マッカーサー元帥の六月六、七、二六日、七月一八日の指令ならびに書簡の精神と意図に徴し、わが社は日本の安定に対する公然たる破壊者である共産主義者ならびにこれに同調せるものに対し解雇することに方針を決定した」ことが理由になっており各社ともほぼこれに準じている。なお、その後におこなわれた前記各社の追加パージ、および地方新聞各社のパージ実施により、八月五日現在、対象者は全国で七〇四名に達した(労働省労政局調査)。


さらに、国鉄ではいちばん問題となったのが労働者の賃金すらも国鉄単独で決定できないという問題が有りました。
 賃上げも、運賃改定も国会の承認がいるわけです。
 更に悪いことに、運賃の値上げすら言ってみれば政争の具とされたりしたわけで、運賃値上げを認めてほしかったら、新駅を設置しろ・・・みたいなことが行われていましたね。

それとは別に、「51年は、別に機関車労組(機労)が結成され」という部分について補足させていただきます。

機関車労組と呼ばれる組合は、後の「動労」と呼ばれる組合であり、当時は機関車が多かったことから「機関車労組」と呼ばれていました。
言わば職能組合であり、組合員は機関車乗務員だけで、機関士は言わば技術職であり駅員と同じ賃金体系であるのは可怪しい、職能別の賃金体系であるべきであるというところからスタートした組合で、国労から分離したものでした。
今風で言えば、派遣労働者のうちIT関係の派遣労働者だけが賃金の差別化を求めて別組合を立ち上げました・・・みたいなイメージですね。

実際に、総評に加盟していましたし、基本的な運動方針も国労と同じであり、労使協調というよりは労使対立が目立つ組合でした。
ただ、「機関車労組」設立には当時の運転局長木島虎蔵氏をがバックアップしていたと言われており、動労を俺の組合と標榜し、また実際に組合も組織的に応援していました。

参考 

国鉄があった時代

仲裁最低に関してはまた後日機会があれば説明させていただきます。

以下、国労からの資料になります。

他にも、鉄道関係のblogがこちらにございます。

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 二 行政整理後の国鉄労働組合のたたかい
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├○ 指令○号と成田中央委員会  │
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 行政整理は、人員削減を意味しただけではなく、この整理を通じ、戦後初の国労運動の重要な一翼を担っていた共産党系活動家に対する指名解雇=レッドーパージという性格を持っていた。中闘の中では、17名(共産11、革同6)が解雇通告を受けた。この通告後、中闘では、公労法の趣旨(4条3項)と絡み、被解雇者の組合員資格が問題になった。中央闘争委員長は被解雇者の組合員資格が大問題になった。中央闘争委員長は被解雇者の資格を否定する発言を行ない、中闘は大混乱となり、事実上分裂した。
 49年7月22日、民同派中闘は、いわゆる指令○号を各機関に発し、8月15日に中闘の補充、新運動方針の決定などを議題として中央委員会を開くことを指示した。これは、戦後の国労史に残る歴史的に不幸な指令であった。とはいえ、事実として、この中央委員会は成田で開催され、革同派の一部が加わったほかは、民同派にによって構成される新執行部が選出され、新賃金要求など新しい運動目標を決定した。ただ、歴史上、幸いであったのは、民同派の指令○号に始まる行動は、国鉄のなかでは組織分裂とはならなかったことである。翌年の50年1月の中央委員会では、共産党代表も挨拶して、事実上、成田中央委員会の諸決定について追認した。

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├○ 仲裁裁定完全実施の闘い  │
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公労法の適用下の国鉄労使関係で出発当初から問題化したのが賃金決定問題であり、国鉄当局の当事者能力の欠如であった。公労法適用以後、「分割・民営化」以前の国鉄では、労使の自主交渉のみで賃上げが決定、解決した事例は51(昭和26)年を例外と考えれば、ほかには一度もない。賃上げ問題は毎年、調停、仲裁に移行した。しかも57年以前はは、仲裁裁定不履行(不完全実施)問題が再三発生した。かって50年の賃上げの際、国鉄調停委員会は調停を省略し、異例の仲裁請求を行ったが、藤林敬三国鉄調停委員長は、その際の談話で述べている。「公労法に於いて給与問題が団体交渉の範囲内にあると定められても国有鉄道公社には著しく限定された交渉余地しか残されていないので見方によっては全く団体交渉当事者としての能力が欠如していると考えられる。かくして公労法の精神にも拘らず給与改善の如きは当事者の双方の間で要求の意思伝達とこれを容れ難いとする意思表示が行われるだけであって、到底団体交渉の実が示され得ない状態にあるのも当然である。」(労働省『資料運動史』昭和25年版、76頁)。藤林委員長が、こうした私指摘をする状況下の賃金決定問題であった。以下、事例を見ていこう。
 49年の賃金引上げでは、国鉄調停委員会は8,058円ベース調停案を出したが、当局は拒否し結局、一時金として45億円を支払ったに過ぎなかった。50年の場合、こくてつ調停委員会は前回調停案を妥当だとして、異例だが調停を省略し、8,200円ベースの仲裁裁定を出した。これも49億円の一時金の支払いで、不完全実施となった。51年はは、10,824円の調停案が出された。その後、仲裁申請がなされたが、労使双方、団交で解決したいとして仲裁は打ち切りとなった。51年は、10,824円の調停案が出された。その後、仲裁申請がなされたが、労使双方、団交で解決したいとして仲裁は打ち切りとなり、調停案を基礎に労使協定によって解決した。52年8月以降、13,400円の仲裁裁定が出されたが、国会は11月以降の実施として議決した。53年は8月以降、15,370円の仲裁裁定が出されたが、国会は54年1月以降実施とした。54年から56年にかけては、ベアの調停、仲裁裁定自体が出されなかった。この場合、54年のの人事院勧告留保、中労委の私鉄、電力に対する定昇のみ、ベアなしのあっせん案などとの関連が大きかった。
 仲裁裁定などの不完全実施に直面し、当初は合法闘争を推進するという方針の国労も、次第に態度を硬化させ、合法的実力行使(順法闘争など)そして実力行使へと傾斜していった。交渉相手は国鉄当局であっても、実際には対政府的性格を持ち、きわめて政治的性格を持たざるを得なかった。
 49年の場合は、中闘は東京でハンガー・ストライキを行った。50年1月の中央委員会では、合法闘争の枠を広げる必要性についての論議が行われ、最悪の事態に備えて第二中闘を組織する方針が出された。51年は、別に機関車労組(機労)が結成され、以後公労法上、交渉単位制が問題となるが、それは別としても、国労は11月、「実力行使宣言」を発し、座込み指令と一斉休暇の準備指令を出した。結果として、行われたのは座込みだけであった。52年は、初めて順法闘争が行われた。国労は「運転保安規整運動」、機労は「運転事故絶滅最強化運動」と名づけていた。また、一斉休暇闘争が行われた。だが、52年1月には、国労三役の解雇=首切り処分が発令された。
 53(昭和28)年から56年の賃金闘争では、一層、実力行使が強化された。これには、52年に公労法が改定され、国鉄、専売だけでなく、電電公社、郵政、林野、印刷、造幣、アルコール専売職員も適用対象になり(3公社5現業)、53年10月、3公社5現業の組合により、公共企業体等労働関係法適用労組協議会(公労協)が結成されたことが力となった。そして実力行使の強化とともに、処分・団交拒否問題が発生した。57年の闘争で発生した三役解雇処分の場合、国労は三役の職務権限執行を停止し、委員長代理(岩井章)を選出したので団交拒否問題は生じなかった。だが、53年の年末闘争に対する18名の解雇処分が翌年発表され、54年5月の中央委員会で、被解雇者を役員に選出さするに及び、国鉄当局は公労法4条3項を理由に団交交渉を通告した。国労は、仲裁委員会に不当労働行為の申立を行い、東京地裁に仮処分申請を行った。この場合は、東京地裁の和解案が示され、「話し合い」という名目での事実上の団交再開で決着した。だが、この団交拒否問題は、57年の藤林斡旋案を経て、やがてILO条約批准闘争に発展していった。

続く