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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 44

国鉄分割民営化はスト権ストで検討された?

75年に行われた、スト権ストは、政府も公務員並びに公共企業体職員のスト権を容認する方向で動いていた時期もありましたが、スト権問題を検討していた公共企業体等関係閣僚協議会という専門委員懇談会では、当初から「事実上、国鉄や郵政などの官公労働者のスト権を認めない」と言い方針を堅持しており、更にはこうした公企業に対して民営化(国鉄の場合は分割を含む民営化)を検討していたといことは注目に値します。

 「現在の主流をなす労働組合の体質とその実績からみて、当然の権利として、争議行為が繰り返されることが予想される」 とした。
こうした観点から、意見書は、争議権問題を労使関係の見地からだけで処理しようというのは 「真の解決」 にはならないとして、この問題は経営形態とともに検討されねばならないとうたったのである。

国鉄分割民営化は土光臨調でいきなり出てきたわけではなく、この時点ですでにその萌芽があったと言えましょうか。

増え続けた国鉄赤字

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運輸白書昭和51年度から引用

国鉄の決算を見ていますと、昭和39年度の赤字決算以来毎年赤字を重ね昭和43年には累積積立金を取り崩してしまい、昭和46年度には償却前の赤字を計上、昭和48年度には負債総額が資産総額を上回るいわゆる資本マイナスの状態に追いこまれるわけで、運輸省から分離した国鉄は、運輸省に対して対立する存在から、協力を求める、さらには応援を求める立ち位置に変わっていくこととなりました。
日本の交通の不幸は運輸省国鉄が独自に交通体系を作ろうとしたことに不幸があったと個人的には思っています。

ただ、この辺のお話は労働組合のお話から外れますので別の機会にさせていただこうと思います。

スト権ストの後に設立された「公共企業体等基本問題会議」

さて、昭和50年(1975年)のスト権ストは国鉄労組にとっては敗北でしたが、その後政府は、公労協の問題を話し合うために、公共企業体等基本問題会議を昭和53年(1978年)1月に発足させました。

この会議で答申された内容は以下の通りで、国鉄ローカル線の分離民営化まで踏込んで答申されていると言うことです。

同年の6月19日には、公共企業体等基本問題会議は下記の意見書を提出しました。

  • 国鉄地方線
  • たばこ専売
  • アルコール専売の民営移管・争議権付与
  • その他(国鉄幹線系)及び郵政・電々公社・造幣・林野は現状 維持
  • ただし労使関係正常化のための労使の話合いの場を設ける

こうして労使のトップクラスの話合いの場として,公共企業体 等労働問題懇談会が設置されました。

この時点ですでに地方ローカル線は分離する方向性が打ち出されていたことであり、これがその後の国鉄ローカル線廃止の際の参考にもなっていったと思われます。

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公労協と公共企業体等基本問題会議

公労協は、初めは公共企業体等基本問題会議を無視する方針をとったそうですが、12月になって政府から「組合側の意見を十分参考にする」との回答があったことで公労協側も態度を軟化、出席して意見 を述べることになったそうです。

昭和53年(1978年)1 月13日、国労を皮切りに組合側の意見陳述に入ったそうで、国労意見は下記のような内容だったそうです。

  1. 基本的には労働基本権の全面一律禁止は認められない。しかし、公共輸送を担う労働組合の基本的姿勢として、ストの予告などの一定の制限も否認するものではない。
  2. (略)
  3. 国鉄の経営形態について、分割民営化ともに認めることはできない。公労法を撤廃し、日鉄法、営業法の制約を撤廃し、国鉄当局の当事者能力の回復を求める。分割・民営化などの経営形態の変更は真の国鉄「再建」にはなりえない。

 ということで、国労側の資料では2番目がどのよう内容であったのかもう少し調べてみないと判りませんが、少なくとも国鉄の当事者能力の回復を組合が求めていることは、組合としても国鉄の現状が縛られた巨人あることを理解していたと思われる点。

また、公共輸送という視点から争議権についても一定の制限は認められるということで、何でも反対という視点からの反対でないことが伺えます。

 

なお、この章は長いので改めて後半についても別に解説をさせていただきます。m(__)m


*1公労協

 

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 2 スト権回復立法構想の提起
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┌─────────────────────────────┐
├○ 公共企業体等基本問題会議をめぐる動向とスト権立法構想 │
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 スト権ストの最中、75年12月1日の政府声明に基づき、76年1月の閣議で、公共企業体当基本問題会議の設置を決め、7月に発足した。そして、公社な どの①経営形態、②当事者能力、③法令関係の三つの懇談会に分かれて、77年秋までに調査・ヒアリングを終え、78年6月には「結論」をだすというスケ ジュールで審議を進めていた。国鉄関係では、77年10月に鉄労、全施労の意見聴取が行われた。国鉄総裁も、意見を述べた。公労協は、初めは公共企業体等基本問題会議を無視する方針をとった。だが12月、政府から「組合側の意見を十分参考にする」との回答があり、出席して意見を述べることにした。78年1 月13日、国労を皮切りに組合側の意見陳述に入った。国労意見は、次のような内容であった。

 ① 基本的には労働基本権の全面一律禁止は認められない。しかし、公共輸送を担う労働組合の基本的姿勢として、ストの予告などの一定の制限も否認するものではない。
 ② (略)
 ③ 国鉄の経営形態について、分割民営化ともに認めることはできない。公労法を撤廃し、日鉄法、営業法の制約を撤廃し、国鉄当局の当事者能力の回復を求める。分割・民営化などの経営形態の変更は真の国鉄「再建」にはなりえない。

78年2月の第121回拡大中央委員会では、6月に予定されている基本問題会議の答申が、スト権論議どころか、国鉄の分割・民営化の方向に傾きつつある状 況を踏まえ、スト権奪還闘争の筋道と自らのスト権回復の立法構想を明らかにし、基本問題会議の答申起草作業に一定の圧力を加える必要を決めた。
 その決定に基づき、学者、弁護士、本部役員からなる「スト権立法対策委員会」が78年3月1日、第1回委員会を開き作業を開始した。78年5月の国労第122回中央委員会には、「スト権回復・立法要求」案が提案された。
 その内容は、まずスト権問題を立法によって解決する場合の基本的前提を述べ、ついで国民生活との関係でスト規制が考えられる諸類型を挙げ、その類型に沿った対応策を提起したうえで、「立法要求の骨子」を次のように提示した。

 

① 全面・一律スト禁止法規の撤廃を
 ② 「国民生活」上の不利益との対応は、労調法上の規制に一元化を
 ③ 「経営形態」論とは別個・無関係なスト権確立を
 ④ 財務民主主義との関連は、国の特別の財務支出の場合に限定を
 ⑤ 国営事業における労使関係の特殊性にみあった、迅速な事件処理のために公労委の  存置を
 ⑥ 労組法・労調法への一元化を原則に、国営事業における労使関係の特殊性にみあっ  た例外的措置に関する特別法として、公労法の縮小・存続を

 この「立法要求の骨子」の各項目にはコメントがつけられ、最後に、「われわれとしてはギリギリの立法要求なのである」と結んだ。中央委員会では、書記長の集約答弁を経て、「当面の闘争方針』とともに承認sれた。そして、「立法要求」を基本問題会議と政府に提出した。
 78年6月19日、公企体等基本問題会議の「意見書」が政府に提出された。これは三つの懇談会の三報告書に、「本文」は、大要次のような意見であった。

 ① 民営等への移行で適切なもの(国鉄の地方線は特殊会社に、たばこ・専売は民営   に)は、移行実施後に公益事業としての制約をうけることはあっても争議行為は認め  られる。
 ② 国有・国営形態を維持するもの(国鉄幹線、電電、郵政、林野など)は、現時点に  おいて争議権を認めることは適当でない。

 この「意見書」は、1980年6月6日、「公共企業体基本問題意見書に関する検討結果報告書」として公表された。その内容は閣僚協専門懇意見書の考え方 の延長線上にあり、最高裁判例を下敷きにし、一層ひどい内容の労働基本権規制を盛り込んでいた。もちろん、国労の「立法要求」などは一顧だにしなかった。 これが、スト権ストを経て、70年代末、80年代初頭、政府、財界の労働基本権問題に関する総括的意見であった。
続く

*1:( 正式名称は公共企業体労働組合協議会。いわゆる三公社五現業労働組合で、昭和28年(1953年)のベースアップ闘争を契機に結成されたもので、いずれも総評(日本労働組合総評議会)加盟の9組合(国労動労全逓全電通全林野、全専売、全印刷、全造幣、アルコール専売)で構成され,かつて日本官公庁労働組合協議会の中心勢力。)

国鉄労働組合史詳細解説 43

 

みなさまこんにちは、気が付けば2週間ほどまた放置しておりました。
申し訳ありません。なかなか書き続けることは難しいものです。
単純に私の能力が不足しているわけですが・・・。

今回は、各種判例を参考に当時の世相などを私なりの見解でまとめてみたいと思います。

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幻に終わったスト権奪還

公務員にスト権ストは国鉄労組の敗北で終わりをつげることとなりました。

それまでは、公務員も27年ぶりにスト権が戻るといわれたものですが、その半年後には数多くの公務員労組に対する団結に関しては違憲であると言う判決が出されました。

公務員というのはその性格上から、身分の安定はある代わりにある程度の制限を受けると言うことが定められており、争議権の禁止等はその顕著な例でしょう。
一般公務員の場合は団結権は認められているものの、団体交渉権などは認められていませんでした。

そういった意味では、特に公共性の高い仕事をしていますので公務員と言うのはそういった意味では単純に労働者と言うくくりで決められないところがあるのも事実でした。

 


日本国有鉄道(現在、JRグループ)スト権スト/1975年

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スト権は取れると思っていたと談話を発表する松崎明国鉄動力車労働組合委員長(当時の役職は東京地本委員長)

公務員のストは違法という風潮は昭和48年に全農事件から始まった。

今回は、最初に「全農林警職法事件-昭和48年4月25日最高裁判決」
とはどんな事件だったのか簡単に触れてみたいと思います。

昭和33年10月警察官職務執行法改正を当時の首相であった岸信介(安倍首相の祖父)が提出した法案で、警察官の権限を強化しようとするもので、警察の業務である、「個人の生命、安全、財産保護」の観点を解釈を拡大して「公共の安全と秩序」を守ることの大義名分を果たすために、警察官の権限を強化しようとしたもので、

 

  • 警告、制止や立入りの制限の権限や
  • 「凶器の所持」調べを名目とする令状なしの身体検査
  • 保護を名目とする留置

を可能にするという内容であり、戦前の評判が悪かった「オイコラ警察」を想起させるものと言われました。

労働組合としても、「公共の安全と秩序」という名目で組合活動に介入するのではないかという疑念が起こり反対運動が起こったと言われています。

全農林警職法事件概要

全農林警職法事件も、11月5日全農林労組(総評)が職場大会の実施について、午前10時頃から11時40分ごろまでの間、農林省職員約3千名に対して職場大会への参加を仕切りに要請したことは、職務専念義務に違反しているとして、国家公務員法98条5項(改正前)改正後は98条2項に抵触するとして、起訴したものです。

参考 全農林警職法事件 - Wikipedia

  国家公務員法98条5項(改正前)改正後は98条2項

2 職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。

又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。

公務員はその労働条件に制限をくわえられるのは多少は仕方がないということ

結論から言えば。
憲法28条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶが、この労働基本権は、勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れない・・・

として、公務員がその業務の特殊性に鑑みある程度制限されるのは当然だろうと言う解釈がなされています。
当然と言えば当然なんですけどね。

これは、同じような事例として地方公務員にも当てはまるとした、岩教組学テ事件(最大判昭和51・5・21)でも同様の判例が出されています。

当然のことながらこうした判例では、公務員の準じる扱いの公社職員も同じ法理が当てはまることになりました。

国労の記事から引用します。

1975(昭和50)年のスト以来、官公労働者の労働基本権をめぐる政治・判例動向は、年々、遺憾な方向に向かっていた。最高裁判決ではすでに全農林警 職法事件判決で、これまでの判定から逆転し、スト権否認の方向が強まった。その後も、公務員の政治活動禁止を合憲とした全逓猿払事件判決(74年11 月)、学力テスト反対闘争中の説得活動を有罪とした岩手学テ事件判決(76年5月)などが相次いだ。

組合バッチや、反戦プレートも組合活動と見做される。

77(昭和52)年12月13日、最高裁は、目黒電報電話局事件に対する判決を行った。判決で、最高裁は、職員の職務行為になんら支障のない反戦プレー ト着用をとらえて、その行為は政治活動を禁止した電電公社就業規則に違反するとしただけでなく、この行為は職務専念義務にも違反し、さらに職場規律をも 乱すとして懲戒処分の対象になると断じた。つまり、職場における日常の組合活動すら否認しかねない「法の論理」が展開していた。

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ここで注目したいのは、「職員の職務行為になんら支障のない反戦プレー ト着用をとらえて、その行為は政治活動を禁止した」とありますが、こうしたワッペン類や組合バッチなども労働組合運動としてみなすという判決が(昭和52)年12月13日最高裁から出されました。

これについては、私も郵政省に勤務していましたので事情はある程度了解できます。

まず、郵政でも、反戦プレート類の着用は禁止されていたと思いますが、組合バッチについては容認されており、管理者に聞いたところ、郵政の場合労働組合とは組合バッチに関しては協定を結んでおり、組合バッチに着用は組合活動と見做さないという協定を結んでいたそうです。

なお、この組合バッチ=労働運動というルールを厳格にJRで最初に実施したのが、JR東海、(訂正します、国鉄末期に職員局が、バッチ類の着用で処分をしていたようです、私の調査不足でした、その後判明した内容ですので、ここに追記させていただきます。)国労組合意を中心にバッチを勤務時間中に着用しているとして処分を連発したと聞いたことがあります。

その後は、バッチではなくネクタイであったりボールペンに国労のマークを入れているのはご存知の通りだと思います。

 

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画像はイメージです。

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 2 スト権回復立法構想の提起
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├○ 全逓名古屋中郵事件・札幌駅ビラ貼り事件最高判決 │
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 1975(昭和50)年のスト以来、官公労働者の労働基本権をめぐる政治・判例動向は、年々、遺憾な方向に向かっていた。最高裁判決ではすでに全農林警 職法事件判決で、これまでの判定から逆転し、スト権否認の方向が強まった。その後も、公務員の政治活動禁止を合憲とした全逓猿払事件判決(74年11 月)、学力テスト反対闘争中の説得活動を有罪とした岩手学テ事件判決(76年5月)などが相次いだ。
 77年5月4日の全逓名古屋中郵事件判決は、「公労法第17条第1項による争議行為の禁止は憲法28条に違反しない」ことを公然と結論づけ、争議行為を 正当化した。この判決は、スト権ストの半年後の判決であり、事実上、スト権ストに対する判例であった。そのうえで、さらに組合活動の自由に関する二つの最 高裁判決が出された。
 77(昭和52)年12月13日、最高裁は、目黒電報電話局事件に対する判決を行った。判決で、最高裁は、職員の職務行為になんら支障のない反戦プレー ト着用をとらえて、その行為は政治活動を禁止した電電公社就業規則に違反するとしただけでなく、この行為は職務専念義務にも違反し、さらに職場規律をも 乱すとして懲戒処分の対象になると断じた。つまり、職場における日常の組合活動すら否認しかねない「法の論理」が展開していた。
 79年10月30日の札幌駅ビラ貼り事件最高裁判決は、その「法の理論」をさらに徹底させ、当局の承認を欠いたいかなる企業内活動も許されるべきではな いという結論を導き出した。その「結論」とは、「労働組合又はその組合員が使用者の所有し管理する物的施設であって定立された企業秩序のもとに事業の運営 の用に供されているものを使用者の許諾を得ることなく組合活動のために利用することは許されない。」というものであった。
 最高裁は、5・4全逓名古屋中郵事件判決で争議権を否認し、今度は「施設管理権」をタテに組合活動を職場から締め出そうとした。労働基本権回復のため闘っている官公労働者には。80年代を前にして憂慮すべき状況にあった。

続く

 猿払事件

猿払事件 裁判要旨

1. 国家公務員法102条1項、人事院規則14-7・5項3号、6項13号による特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布の禁止は、憲法21条に違反しない。
2. 国家公務員法110条1項19号の罰則は、憲法31条に違反しない。
3. 国家公務員法110条1項19号の罰則は、憲法21条に違反しない。
4. 国家公務員法102条1項における人事院規則への委任は、同法82条による懲戒処分及び同法110条1項19号による刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に人事院規則に委任しているからといって、憲法に違反する立法の委任ということはできない。
5. 国家公務員法102条1項、人事院規則14-7・5項3号、6項13号の禁止に違反する本件の文書の掲示又は配布(判文参照)に同法110条1項 19号の罰則を適用することは、たとえその掲示又は配布が、非管理職現業公務員であって、その職務内容が機械的労務の提供にとどまるものにより、勤務時 間外に、国の施設を利用することなく、職務を利用せず又はその公正を害する意図なく、かつ、労働組合活動の一環として行われた場合であつても、憲法21 条、31条に違反しない。

(4につき反対意見がある。)

wikipediaより引用

国家公務員法 第102条(政治的行為の制限)

1 職員は、政党又は政治的目的のために、寄付金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。

2 職員は、公選による公職の候補者となることができない。

3 職員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問、その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。

国家公務員法110条1項19号 第102条第1項に規定する政治的行為の制限に違反した者
 

人事院規則 14-7 5項第3号

5  法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。

三  特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること。

人事院規則

国鉄労働組合史詳細解説 42

 

長らく更新できませんでしたが久々に更新させていただきます。

今回は、マスコミによる国鉄タルミキャンーペーンについて語らせていただきます。

時間がありましたら昭和53年のことも機会を改めて記述させていただきます。

ただ、昭和52年頃はマル生運動の余波もあってか勤務変更を迫った管理者の意向を無視して電車を運休させたとか・・・こうしたことが平然と行われていた時代であったともいえましょう。

当時の国鉄を見るうえでのエピソードとして見ていただければ幸いです。

マスコミによる国鉄タルミキャンペーンとその反論

そんな中、国労が行った、「77年8月の第39回定期大会(新潟市)」の春闘総括で、「仕事の上でのタルミ事故や職場の労働者モラルの確立」という点について語ってみたいと思います。

国労は、76年の後半以降、マスコミによる異常な「国鉄職員のタルミ論」の一大キャンペーンを行ったとされていますが実際はどうだったのでしょうか。

私もすべての事故等を網羅できているわけではないのですが、調べた範囲をこちらでアップさせていただきます。

決して少なくない、国鉄職員による事故など

特に明記なき場合は幣サイト、国鉄があった時代1976年・77年編を参照

http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_51.html

http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_51_5.html

http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_52.html

http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_52_5.html

1976年

  • 2月24日
    鹿児島県川内市で列車運行中の機関士が、貨物列車の通過までの待ち時間を使い、パンを買いに行ったところ、ブレーキが甘かったのか列車が動き出した。機関士が慌てて戻ろうとしたらダンプカーにはねられ命を落とした。国鉄の規定では、基本的に機関士は列車から離れてはいけないことになっている。引用 適当な調査: 国鉄時代の不祥事の事例
  • 5月2日 普通電車停車駅通過

    23時20分ごろ、上野発土浦行普通電車(勝田電車区)12両編成が佐貫駅を通過、牛久駅で停車。佐貫駅で降車予定の34人は、牛久から駅長手配のタクシーで目的地へ。佐貫駅ホームに乗客の姿が見えないので運転士は通過列車と錯覚。

  • 5月14日 普通電車停車駅通過

    15時56分ごろ、京浜東北線西日暮里駅で大宮発大船行普通電卓(蒲田電車区)10両編成が約80mオーバーランして停車したが、西日暮里~日暮星間は短小区間で信号保安のため戻れず、次の日暮里まで運転。5、6人の乗客で混乱はなかった

  • 5月31日 車掌腹痛で特急のドア開かず、乗り越し。

    21時22分ごろ、鹿島神宮発東京行総武線上り特急「あやめ4号」が綿糸町駅到着のさい、車掌が腹痛を起こし、ドア不開のまま発車・同駅での降車客15人は東京駅から逆送。運転士のパイロット確認漏れと重なる事故

    f:id:whitecat_kat:20160507130726j:plain

  • 6月15日  運転士と駅員が喧嘩
    東京都青梅市で運転士が走行中の列車を止めてから降りて、ポイント清掃中の駅員と喧嘩をした。運転士は線路から離れるのが遅かった駅員に窓から注意をしたが、それに駅員が反論して喧嘩になった。
    引用 適当な調査: 国鉄時代の不祥事の事例
  • 7月6日 遅刻を理由に助役つるし上げ、乗客迷惑

    東京駅で検修担当の助役が遅刻、8時半の点呼が出来ずなかったことで、検査掛の職員が仕事を始めず、「ひかり67号」の出発が1時間11分遅れ。
     なお、実際には担当助役より20分前に指導権を持つ別の助役が到着しており、約1時間にわたってつるし上げしていたことも後に発覚

  • 7月9日 新幹線無人走行
    三島駅で「こだま」の電車運転士が、故障していたドアを点検中にドアが閉まってしまい、無人のまま発車約13キロ走った。
    さらに、この話当初は、運転士が腹痛で代理の運転士が運転したとされていたが、10月16日になって内部告発などからうそが発覚したと言うお粗末

    f:id:whitecat_kat:20160507130524j:plain

  • 列車到着前にドア開放 10/21

    常磐線上野駅手前で電車のドアを開放。(詳細調査中)

  •  普通列車が駅通過 10/30

    紀勢本線阿漕駅普通列車が止まらずに通過 (詳細調査中)

  •  車掌乗せずに発車 11/7

    函館本線滝川駅で車掌が乗らぬうちに発車 (詳細調査中)

  •  運転士が勤務忘れ 11/9

    総武線西船橋駅で運転士の勤務忘れ(詳細調査中)

  •  外房線御宿駅で特急列車がオーバーラン 11/17(詳細調査中)

  • 旅客電車があわや衝突 11/30

    中央本線国分寺駅構内で信号無視の普通電車が、側線停車中の貨物列車にニアミス。

  •  車掌不在のまま発車 12/1

    東北本線小牛田駅で車掌不在のまま発車 (詳細調査中)

  •  車掌勤務忘れ 12/1

    日田彦山線後藤寺駅で車掌の勤務忘れ (詳細調査中)

1977年
  • 走行中の〈こだま〉のドア開く 1/21

    21:46頃最終広島行き〈こだま442号〉が博多~小倉間のトンネル付近を走行中、突然ドアが開いて急停車。発車すると、また開き、徐行運転で小倉へ入り運転を打ちきった。車両修理時の配線ミスが原因

  • 助役勤務中に飲酒して電車止る
    身延線の国母駅で勤務中の助役が信号の切り替えを忘れ、電車が止まった。助役は勤務中に酒を飲み寝ていた
    引用 適当な調査: 国鉄時代の不祥事の事例
  • 〈こだま〉がお家の事情で運休 5/25

    新大阪6時06分発の博多ゆき〈こだま〉の初列車391Aと、折返し博多9時44分発392Aが、運転士のやりくりがつかず運休。休みが多かったとか、勤務制の変更を乗務員が断わったとか、お粗末な理由が原因

  • 回送車の非常ドア開き急行にあたる 6/8

    16:30ごろ品川客車区から東京駅へ回送中の「みずほ」の非常ドアが開き、すれ違った下り「東海4号」にぶつかるという事故があった。死傷者なし、原因ほ検査員の非常ドアのしめ忘れ

 

全てを網羅しているわけではないので何とも言えないのですが、これだけの不祥事があればタルミ事故とは、言い切れないと気がするのです。

国労の言い分は、以下のようになっています。

「マスコミは、国鉄の事故などが、あたかも主に職員のタルミ に起因し、国鉄の赤字もまた、国鉄職員の”怠け”に原因があるかのような報道を連日行った。もちろん、”タルミ”や”怠け”が全くなかったとは言えない し、また、いくら注意を払っても、誤りは、ナマ身の人間である以上、避けられない。問題は予期しない事態が起きても、必要な要因と設備で捕らえる体制が整 備されているかどうかである。だが現実は、「合理化」の名による人べらしと手抜き作業化、安全性を無視したスピードアップが押しつけれた。こうした現実と は無関係に、国鉄労働者の「タルミ論」が展開されていたことに、意図的な異常さがあった。」

ただ、前回も書きましたが当時は本当にこうした国鉄による事故等が、毎日のようにどこかで起こっていたのです。

最近では、JR東海の社員が電子たばこを吸っていたとして、新聞に載っていましたが喫煙類似行為となるのでしょうか、

私はタバコを吸わないのでこの辺の感覚が理解できないのですが・・・。

ただ、上記のような内容で見る限りは、国労の主張する

「「合理化」の名による人べらしと手抜き作業化、安全性を無視したスピードアップが押しつけれた。」ばかりでは、無いような気がするのは、私だけでしょうか。

 

******************************以下は、国労の本文になります。******************************

 

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 1 春闘の低迷と「管理春闘」の強まりに抗して
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┌───────────────┐
├○ 職場の労働者モラルの確立 │
└───────────────┘

 国労は、77年8月の第39回定期大会(新潟市)でも春闘総括を行った。そのなかで、「相対的には3連敗に歯止めをかけた」としたが、民間準拠方式への反省、制度闘争の不十分さの反省や、別に交運共闘のもつ特別な意義などのほか、「仕事の上でのタルミ事故や職場の労働者モラルの確立」を強調して目を引いた。
 この背景には、76年の後半以降、マスコミの異常な「国鉄職員のタルミ論」の一大キャンペーンが背景にあった。マスコミは、国鉄の事故などが、あたかも主に職員のタルミに起因し、国鉄の赤字もまた、国鉄職員の”怠け”に原因があるかのような報道を連日行った。もちろん、”タルミ”や”怠け”が全くなかったとは言えないし、また、いくら注意を払っても、誤りは、ナマ身の人間である以上、避けられない。問題は予期しない事態が起きても、必要な要因と設備で捕らえる体制が整備されているかどうかである。だが現実は、「合理化」の名による人べらしと手抜き作業化、安全性を無視したスピードアップが押しつけれた。こうした現実とは無関係に、国鉄労働者の「タルミ論」が展開されていたことに、意図的な異常さがあった。
 この大会は。「国民の国鉄」を目指す民主的規制を決めた大会であったが、77年春闘の総括を踏まえて、「職場における労働者の自主規律の確立」を打ち出した。すなわち、「働き、要求し、たたかう」作風の確立を打ち出した。それは、マスコミの「タルミ論」への批判を意識していたが、同時に一定の自省の念も含まれていた。

┌────────────┐
├○ 春闘再構築への努力 │
└────────────┘

 1978(昭和53)年春闘は、重化学産業部門で構造的不況業種が続出し厳しい春闘なった。賃上げ要求基準は、前年をさらに下回った。同盟・JC、新産別が定昇込み12%の要求基準を決め、総評も含め労働4団体の賃上げ要求がほぼそろった。国労は、2月の第121回拡大中央委員会で、3万2000円、18.4%の賃上げ要求基準を決めた。額は前年と同じ、率では1.4ポイント下がった。闘い方では、前年に続き、地域春闘を重視した。事実、国労は、3月29日、30日、地域ストを実施した。
 これは、国鉄当局が、1月30日、(貨物大「合理化」の一環として、前年夏の提案(276駅廃止)以来、さらに79年度、80年度に貨物取扱駅の廃止提案(290駅)を行ったことに依っていた。4月に入り、地域での時限ストがさらに他の地方に広げられた。18日と19日には、2日間のストを行い、全幹線がマヒ状態となった。
 4月25日午後、私鉄は8800円、5.53%で妥結し、ストを中止したが、財界、政府の介入が例年になく目立った。これは、鉄鋼回答を乗り越えて春闘相場形成の主軸になろうとする私鉄への不当な政治圧力であった。25日は、全交運と公労協の集中決戦ストとなった。公労委の調停は難航し、調停委員長が示されたのは、26日の深夜11時となった。内容は、2.2%プラス1,500円、国鉄では9,000円、5.16%であった。
 国労は、78年7月の第40回定期大会(高知市)で、「78年国民春闘は労働者側の『敗北』といわざるをえない」と総括を行った。ただ,地域春闘については,積極的評価を行った。また、78年春闘が、”鉄冷え春闘”と評されるほど抑えこまれ。とくに私鉄春闘への政治的介入が目立った経過を踏まえ、国労は改めて、春闘再構築の先頭に立つ決意を固めた。
 79年は、景気回復は業種によってバラつき雇用情勢も悪かった。国労は、2月の第124回拡大中央委員会で、2万2000円(9.6%プラス1,200円)の賃上げ要求を決めた。また、3月6日には、運輸審議会国鉄地方交通線問題小委員会が出した「ローカル線5000キロ分離」などの報告に反対して闘った。4月11日、JCへの賃上げ回答(鉄鋼8,600円、5.02%)が出されたが、私鉄、公労協への交渉、調停は難航した。25日、電電公社を除く2公社5現業への調停委員長見解は、平均2.35%プラス1800円(定昇込み平均9,641円、5.63%)、国鉄は、平均6,027円、3.35%(定昇込み平均9,804円、5.45%であった。私鉄は,このあと公労協に見合う9,700円、5.63%という新回答が出され、ストを収拾した。例年と比べ、公労委が先行し、私鉄があとに回った。それだけ、政府筋などの私鉄への圧力が強かった。7月の第41回定期大会(鹿児島市)で,国労はとくに私鉄との共闘を高く評価した。ただ、(ア)JC主導型の賃金抑制が復活したこと、(イ)「産別自決」が「単産自決」にかわり、業種間、企業間格差が拡大したこと、(ウ)産別志向と統一闘争の混迷、(エ)労戦統一への思惑から、労働4団体や組合相互間の結束が弱いことが春闘結果に反映し、80年代春闘の多難さを示唆する春闘であった。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 41

 

みなさまこんにちは、久々に更新させていただきます。

今回は、スト権ストその後という視点から見ていきたいと思います。

少し時間は戻りますが、第一次石油ショックが起こったのが、昭和48年10月、それまでの経済成長に対して一気にブレーキをかけることとなったことは言うまでもありませんでした。

石油ショックと景気後退

これにより、一時期流行った、列島改造ブームも一気に冷めやってしまいました。

その不況は、75年(昭和50年2月)の第1次景気対策決定、並びに4月の公定歩合引下げに伴い、景気は50年1~3月期頃を底に上昇に転じたることとなりましたが、この年は春闘も低めに推移したそうで、75年春闘では15%以下ガイドラインを提起した。
 これには、JC(金属労協)の有力組合である鉄鋼労連委員長らが、賃上げ自粛論を打ち出すなど、労働運動内部からも呼応する動きが出た。75年春闘は、労働省調べで13.1%アップに終わり、日経ガイドラインの中に収まったそうです。

そうした少しづつ景気が上向いてきた昭和50年に国労を中心としてスト権奪還ストがおこわなわれたわけです。(スト権ストは国鉄労働者のみならず、官公労働者(当時であれば国鉄電電公社(NTT)・日本専売公社JT)・郵政省(JP)などにも波及するわけで、その影響力はかなり大きなもので、当時の政府はスト権付与もやむなしということで、電電公社などにも伝えていたと言われています。

実際には、すでに記述のとおり国鉄ストは空振りに終わり、生鮮食料品などの主要物資はトラックで運び込まれており、結局は大口荷主の信頼を失うこととなって結果的には貨物輸送のシェアを更に下げる結果となりました。

f:id:whitecat_kat:20160419104757p:plain

改めて国鉄に目を転じてみますと、75年のスト権ストのあと様々な課題が山積することとなりました。

 国労が抱えていた課題

  • スト権ストの失敗から、この点を総括したうえで76年春闘をどうするかという課題が残った。
  • 国鉄再建問題が、スト権ストと不可分な形で課題として存在したこと、(実際にこのストライキが契機となり国鉄分割民営化へと進んでいくことになりました。)
  • 国鉄当局による合理化が進んでいった。
    この辺は、国労側の見解としては以下のように表現しています。

    当局の国鉄再建はつねに、相次ぐ「合理化」を伴い、「国民のための国鉄」とますます離れる方向で進められていた。これに対して、「民主的規制」=「民主 化・政策闘争」を対置して闘うことが必要化していったが、その克服もまた重要であった

  •  マスコミによる国鉄職員のタルミ・キャンペーンが行われた。
    なお、ここで書かれている、タルミ・キャンペーンは後のブルトレ闇手当問題とは別の問題提起が行われていました。

国労が気にしていた、労働者の自主的規律とは・・・

特に国労としても4番目の問題に関しては、労働者の自主的規律を確立することを必要としていたと書かれています。

今では盗撮ではないかと言う批判もありそうですが、当時の電車は運転士が昼間でも遮光カーテンをすべて下していたため、運転士が何をしているのか全く分からない状況におかれていました。

さらに、車掌は本来は遮光カーテンを下す必要がないにも関わらず、同じく昼間から遮光カーテンを下ろしており、運転士以上に何をしているかわからないと言う状況でした。

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いただき物の画像から・・・。天王寺駅に到着する70系電車当時は、運転台の遮光幕が昼間から下がっているのが当たり前の時代でした。

そこで、新聞社のカメラマンが超望遠レンズで走行中の電車を撮影して運転士なり車掌の動向を探る?みたいなことが行われました。

今なら、肖像権ガー・・・と言われそうな話ですが、当時はそれを容認すると言うか仕方がないと言う風潮がありました。

実際には、目線が入れた有ったので個人の特定は無かったかと思いますが・・・見る人が見ればわかるでしょう。

実例をあげますと

  • 運転士が、運転中に両手を離して運転していた
  • 車掌が、漫画週刊誌を読んでいた
  • 車掌が、腹が減ったのかパンを食べていた…等々

実際に、車掌がパンを食べていたとかは、ちょっとお行儀が悪いけど・・・といえても、週刊誌を読み漁っていたというのは問題ですよね。

さすがに漫画週刊誌を勤務中に読むのは憚らるのではと個人的には思っています。

実際に当時は碌に案内放送もしないというのが当たり前のようになっていましたから・・・、

多分、国労当局もそうした実態をある程度把握していたのであろうと推測されます。

 

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さて、再び話題を昭和51年の世相と景気に戻してみたいと思います。

鉄道の話題としては、急行銀河が旧形客車から「特急つるぎ」を24系25形化したことにより捻出された20系客車を使ってグレードアップするとともに全車寝台化が完成しました。

一部当時の鉄道の様子を抜粋してみました。

国鉄、役員会で財政再建策として1月分から総裁など幹部150人の給与を5~10%返上と決定 1/13
愛媛県青果連、国労動労に対しスト権ストによる損害賠償請求 1/14

国鉄労組(村上義光委員長)、「国鉄再建についての緊急提案」発表 2/5

運賃値上げなしの再建案を発表。内容は、
(1)設備投資の抑制
(2)地方交通線の補助拡大
(3)大企業貨物運賃の割引中止など14項目

国鉄自民党政調審議会に5年間で1万5000人の要員削減などを内容とする「経営合理化に関する基本見解」提出 2/6
国鉄、特急など3280本におよぶ春の臨時列車ダイヤ発表 2/7
動労四国地本、愛媛県青果農協連の「スト権スト」損害賠償請求に対し、みかん輸送拒否の方針を決定 2/7

国鉄、スト権ストに伴う202億円の損害賠償を要求、国労動労相手に東京地裁へ提訴 2/14
大阪市営地下鉄御堂筋線 10系試作車が谷町線から転入 2/16
国労動労、貨物列車を中心に、”順法闘争”に入る 2/18

木村運輸相、藤井国鉄総裁の辞任を正式受理。2/19
鉄道労働組合国鉄再建で緊急提案。2/20
20系初の急行転用 2/20

寝台特急「つるぎ」20系から24系25型に置換えこれにより捻出された20系は銀河に転用、テールサインは付けられず。急行の表示が入ることに。(転用当初は全くの空白)
20系の急行への転用は銀河が最初

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急行銀河が20系で運用開始

157系引退 3/1

特急「あまぎ」〈踊り子の前身)に使用中の157系電車が老朽化したため183系電車に置換え
157系は17年で引退

伊豆急行 特急「あまぎ」183系で運転開始

指定券制度大幅改正 3/1

指定券変更の制度が一部改正され、変更は1回限りと改められた。
(従来は、使用開始前であれば変更は何回でもできた。)

イラン新幹線(イラン~メシェッド間)建設計画の実務担当のナセル・ハデミ運輸大臣顧間ら国鉄を訪問 3/1
国鉄蒸気機関車全廃 3/2

室蘭本線追分機関区に残っていた最後の現役蒸気機関車9600形3両が、構内入換作業もDLにバトンタッチして引退、国鉄の営業用蒸気機関車は完全に消える。

新幹線は、車両検査の遅れで6/30まで「ひかり」8本、3/22から6/1まで「こだま」二本運休を発表 3/2
日豊本線電化起工式 3/3

南宮崎~鹿児島間120.1kmの交流電化起工式を五十市駅構内で挙行。九州一周電化は’79年度完成の見込み

総武本線八日市市場~干潟間(2770m)でレール交換 3/4
運輸省、3年計画で新幹線沿線1万8000戸の防音工事・移転を行う等の新幹線騒音対策要綱を決定 3/4
国鉄総裁に高木文雄氏 3/5

政府は8代目国鉄総裁にもと大蔵事務次官高木文雄氏を発令・東大卒,1943年大蔵省入り、75年7月事務次官を最後に退任・56歳
副総裁には国鉄常務理事だった天坂菖同氏が昇格・天坂氏は東大卒,1947年運輸省入り∴50年から国鉄へ移り、職員局職員課長、総裁室文書課長、経理局長を歴任・55歳

豊橋鉄道 柳生橋支線 新川~柳生橋間を廃止 3/7
南武線 101系電車投入 3/8

京浜東北線から101系が転入、南武線の半数が101系となる(1978年に101系へ統一)

片町線101系電車が京浜東北根岸線から転入。片町線初の新性能電車となる 3/8
運輸省蒲原鉄道など4社の値上げ認可、17日実施 3/9
「大雪丸LO消費減少対策プロジェクトチーム」に局長褒賞 3/10
新幹線が工事で運休始発から 3/10

10時30分ごろまで、2回目になるレール交換等を実施、東京~新大阪間の全列車、新大阪一博多間の一部列車を運休

新幹線鉄道の騒音振動対策について、環境庁【当時】から運輸省【当時】に下記の勧告が出される 3/12

環境保全上緊急を要する新幹線鉄道振動対策について(勧告) →全文を見る(環境省ホームページとリンクしています)

山陰本線 【高架化】京都~二条間 3/16

山陰本線京都~二条間(3.72km)の高架化完成、使用開始、またこれを記念して、同区間にSL列車を運転(C56が充当?)
貨物支線 梅小路京都市場間 (2.8km) が開業。(貨)京都市場駅が開業。貨物支線 梅小路丹波口間改キロ (+0.5km)

国労動労24時間スト 3/17

春闘第一波スト。国電・新幹線を除く主要幹線がストッブ

春闘第2波国・動労24時間スト 3/30

国電・新幹線を含め,ほぼ全面ストップ。私鉄総連翼下の民鉄も大部分

京都市電の今出川線、丸太町線、白川線廃止 3/31

春闘第3波交通スト 4/14

大手私鉄10社は,「平均8,000円,6.02%ァッブ」の経営者側ペア同答を不満として半日スト。
首都圏の国電動労が早朝ストを行なった。
15・16日も国労動労は,ローカル幹線などで拠点スト

参照 国鉄があった時代

 http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_51.html

この頃になると、JCと電機労連(現在は電機連合)がその相場をけん引するといった時代で、この辺を電機連合のwebサイトから少し長いですが、全文引用させていただきます。

  一けた春闘

76年春闘は不況下の春闘であった。春闘共闘委員会は、参加単産数100、参加組合員数約873万人で、その基調として「国民春闘の再構築」 を掲げ、賃上げについては「20 %、3万円前後」と前年要求より引き下げた。IMF-JC(全日本金属産業労働組合協議会と改称)は生涯生活ビジョンにもとづく、MWS(高福祉社会)活 動推進の具体的内容として、「13%程度の引き上げ基準」 を、同盟も「13%基準」の要求方針をきめた。

一方、日経連は賃金問題研究委員会報告で、「労使協力して雇用の安定に努力すべきで、賃上げはゼロもしくは一ケタにとどめるべきだ」とするガイドゾーンを示した。

労働4団体共闘は、国労・勤労のスト実施などをめぐって1974年3月以降断絶していた。雇用情勢が悪化する中で、共闘の再開を不可欠とする中立労連竪山議長は新産別委員長とともに働きかけをおこない、雇用保障に限定した労働4団体共闘の復活が決まった。

金属労協は、三役会議で集中決戦、集中決着方式をもって闘いをすすめることを確認した。前年スクラムトライに参加しなかった電機労連は、中央委員会の論議を経て春闘の闘い方を転換し、いわゆる「一発回答」を含めて集中決戦方式に参加することを決めた。

金属労協の集中回答日である4月14日に回答提示があり、鉄鋼大手は標準労働者で定昇込み1万2,000円(8.52%)の回答、電機は総合 が9.5% 、家電が10.5% の賃上げで、自動車は平均では1万1,573円(率は8.4~10.27%)、造船重機は鉄鋼同額に300円の積み上げを含め妥結していった。

76年賃上げ闘争の結果は、平均賃上げ額は11,596円、率では8.8%となり、54年以降続いた二ケタ賃上げ率は一ケタに転じ、その後ずっと一ケタがつづく分水嶺の年となった。

1976年(50年のあゆみ):電機連合

国労としても、春闘自体が形骸化していると書いていますが、この年の76年春闘と前後した時期に、元首相の田中角栄を中心としたロッキード事件が起こり、政界と財界の癒着や政府・自民党の根深い腐敗が世論で沸騰していきました。

その年の、3月17日と30日の春闘統一行動には、

  1.  76年春闘勝利
  2.  不当処分反対
  3.  運賃値上げ反対
  4.  ロッキード汚職追放

を掲げ、それぞれ拠点24時間ストを闘う方針を確認し、ストを決行した。

と記録されています。

ロッキード事件等にも機会があれば次回にでも触れてみたいと思います。

******************************以下は、国労の本分になります。******************************

 

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 1 春闘の低迷と「管理春闘」の強まりに抗して
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┌────────────────────────────────────────────┐
├○ 日経連の大幅賃上げの行方研究委員会と「管理春闘」の強まり │
└────────────────────────────────────────────┘

 スト権ストを経た国労の70年代後半の闘いは、多くの困難と諸課題が存在した。第一に、75年のスト権ストのあと、これを76年春闘へ向けて継続することが課題となった。第二に、同時に、国鉄再建問題が、スト権ストと不可分な形で課題として存在した。
  当局の国鉄再建はつねに、相次ぐ「合理化」を伴い、「国民のための国鉄」とますます離れる方向で進められていた。これに対して、「民主的規制」=「民主 化・政策闘争」を対置して闘うことが必要化していったが、その克服もまた重要であった。第4に、マスコミによる国鉄職員のタルミ・キャンペーンに対処し て、労働者の自主的規律を確立することを必要としていた。
 国労は、70年代後半の春闘に取り組みつつ、スト権の追求(含む立法構想)、労働者の自主的規律の確立、反「合理化」と国鉄再建の闘い、「国民のための国鉄」を目指す。「民主化・政策闘争」を展開した。

 74(昭和49)年春闘が、春闘史上、空前の高揚を見せ、国民春闘的様相を示したあと、経営者側は春闘=労働運動の高揚と政治的統一戦線との結合を恐れ、本格的な春闘対策に乗り出した。
 日経連は「大幅賃上げの行方研究委員会」を設置し、11月、『報告書』を出した。インフレと不況の共存のもとで、大幅賃上げを認めれば、インフレ、物価上昇を招き、日本経済の将来は危なくなるとし、75年春闘では15%以下ガイドラインを提起した。
 これには、JC(金属労協)の有力組合である鉄鋼労連委員長らが、賃上げ自粛論を打ち出すなど、労働運動内部からも呼応する動きが出た。75年春闘は、労働省調べで13.1%アップに終わり、日経ガイドラインの中に収まった。
 76年春闘の場合は、日経連はゼロを含む一桁のガイドゾーンを提起し、結果は労働省調べで8.8%に収まった。この春闘でも、JCなど金属大単産と民間大企業が相場形成に有力な役割を果たした。77年以降も同様である。つまり、春闘相場は、有力民間大企業労使の主導で相場が確定するという「管理春闘」的性格が強まった。それは同時に国民春闘の形骸化を意味していた。
 76年春闘に前後してロッキード事件が起こり、政界と財界の癒着や政府・自民党の根深い腐敗を如実に示した。景気は回復基調に入ったと言われながらも、前年以上に厳しい状況にあった。組合の賃上げ要求水準も、前年に比べ、大幅に下回った。国労は、3万9186円の賃上げ要求を決め、3月10日の中執、全国戦術委員会で、3月17日と30日の春闘統一行動には、

  1.  76年春闘勝利
  2.  不当処分反対
  3.  運賃値上げ反対
  4.  ロッキード汚職追放

を掲げ、それぞれ拠点24時間ストを闘う方針を確認し、ストを決行した。
 4月14日、JC傘下4単産への一発回答(定昇込み1万2000円、8.5%など)が出されたが、交運・公労協に結集する各組合は、それを乗り越えて4月中旬以降の決戦段階に入った。21日公労委は、定昇込み1万2184円、8.78%という調停委員長見解を示したが、公労協は不満だとして22日朝7時までストを続行した。結局、仲裁に5月22日、調停委員長見解と同じ仲裁裁定が出された。だが、政府は、国鉄とは電電公社は、「賃金上、賃金の支払は不可能」であるとして、公労法第16条を持ち出し、5月28日、次の国会に議決条件として提出した。政府の対応は、国鉄運賃と田豊電話料金の値上げ法案が通常国会で成立しなかったことを口実にしていた。公労協は激しく抗議した。政府の対応は、国鉄運賃と電報電話料金の値上げ法案が通常国会で成立しなかったことを口実にしていた。公労協は激しく抗議した。9月27日、公労協と政府との交渉で、政府は、「裁定実施に最大限努力」、「完全実施を期す」などを約束し、事実上、決着した。
 公労協は、76年春闘を総括するにあたって、「春闘方式の再検討」を提起した。その骨子は、ストで闘わないJCの賃上げ額がベースとなる民間相場への準拠方式では十分な成果を期待できない、したがって真の産業別統一闘争の組織化に力を注ぐということにあった。国労も、公労協の問題提起を基本的に承認し、7月の第38回定期大会(札幌市)で春闘総括を行った。
 77(昭和52)年春闘では、春闘共闘会議は、「国民春闘共闘会議」へと名称変更し、1000万人春闘を目指した。国労は、2月の第118回拡大中央委員会で、賃上げ要求を3万2000円、19.82%とし、これを「掛け値なしのギリギリの正札要求」とした。この年、私鉄総連は”事後対処法式”すなわち、「団体交渉重視、回答提示後にスト権確立投票」という賃金闘争方式を決めた。その意図は、従来のスケジュール方式では、JC相場を超えられないこと。自ら力をつけた産別自決にあったが、回答提示後にスト権確立投票という事後対処法式では、全交運の他の組合や公労協との戦術調整に大きな問題が生じることが危惧された。事後方式を採用した私鉄は、4月5日の1万1500円回答を不満として、4月16日、20日のスト権を確立した。ただ、15日の大手集団交渉で、1万3300円、9.2%、解決一時金一人3万円の回答を得て、自主交渉で決着した。その内容は、13日の鉄鋼回答1万3000円、8.5%を上回った。公労協関係は、20日、平均1万3,606円、9.12%、国鉄は1万4,243円、8.72%の調停委員長見解で仲裁に移行した。私鉄、公労協、国労とも、鉄鋼相場を上回った。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 40

こんばんは、また2週間近く開けてしまいました。

今回も国鉄のスト権ストについて述べていこうと思います。

前回も書きましたが、このスト権ストは労働組合にとっても、政府・国鉄当局にしても一つの分岐点であったことは変わりないと言えそうです。

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国労とともに公労協の先鋭と言われた全逓と闘争

国鉄労働組合のサイトですが、国労とともに公労協の労働運動をけん引してきたと言われる、全逓について少しだけ触れてみたいと思います。

国労に限らず、官公労働者は国鉄のスト権ストをかたずをのんで見守っていたと言われていますし、電電公社(現在のNTT)もその動向を見守り、当局側としてもスト権付与は止む無しということで電電公社総裁もその意向を固めていたと言われていましたが、結果は・・・国鉄に依存するであろうと思われていた肝心の貨物は殆どトラックで補えることが証明されました。

組合からすれば、昭和23年の官公労におけるスト権を剥奪されて以来28年ぶりに労働者の権利であるスト権を公務員労組も持てるか否かの瀬戸際であったわけです。

そこで、少しだけ本題から外れて、今回は同じく総評で国労以上に激しい運動を展開してきた、全逓信労働組合【通称・全逓】(現在の名称は、日本郵政グループ労働組合)について少しだけお話をさせていただこうと思います。

私が郵政に入った昭和58年頃、勢力は弱まったとはいえ、「権利の全逓」と呼ばれていた名残で、郵便職場特に集配では全逓組合員の力が強かったです。

国労とともに行動する組合として運動を進めてきた組合で、共産党系色の強い左派的組織ではありました。

本題から外れますが、全逓が1978年から79年にかけて行った年末闘争について、レイバーネットの記事から少し長いですが引用させていただきます。

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全逓バッチ 全逓組合員の団結の証として制服に着用している場合が多かった。

反マル生越年闘争

■「反マル生越年闘争とは何か」
約28年前に日本全土を揺るがせた「反マル生越年闘争」という大闘争があったのを知っていますか。1962年、郵政省は、「マル生運動」=「生産性向上運動」を導入し、全 |逓内の右翼的部分により、全郵政を結成させました。このマル生運動は、生産性向上運動に留まらず、全逓組織破壊攻撃としても熾烈を極めました。78年当時、全逓中央に寄せられた実例は4千件近くにのぼります。北海道の名寄郵便局では、役職者は全て全郵政か全逓脱退者で占められ、全逓組合員の適任者は除外されたと言います。宮崎の日南局では、 新規採用者が父親と共に郵便局に呼ばれ、「出世したいなら全逓に入るな」「全郵政に入ったほうがよい」と説教されたり。田舎の母親に「息子さんが全逓を脱退したら田舎の局に転勤させましょう」等と働きかけ、心ならずも全逓を脱退した労働者が多くいました。
生産性向上と称して、朝8時から9時まで管理者が労働者をメモ用紙を持って監視し、「足を組むな」「ヘラヘラするな」「額に汗して働け」などと暴言を吐いたと言います。
これらの改善を求め、全逓は78年12月から79年の1月にかけて約2ヶ月、本部指導により、年賀取扱拒否をはじめ、4億3千万通の滞留を築く物ダメ闘争=業務規制闘争を闘い抜いたのです。この闘争は「大衆的実力闘争」として闘われ、その影響力においてストライキに勝るとも劣らないもので、日本の労働運動史上の金字塔です。「北は礼文島から南は八重山群島まで組合員のいないところはない」と言われた当時19万5千人の全逓労働者が、約2ヶ月間に渡って闘ったことの意義はいくら強調してもしすぎる事はありません。

最近はインターネットの発達によりメールのやり取りが一般化し年賀状を出そうと言う風潮は年々減っているとも言われています。

実際にこうしてみると、2003年をピークに年々減っているのが判ります。

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参照 ガベージニュースから引用。

www.garbagenews.net

しかし、当時は現在のように機械化されておらずまして、配達に関しては全て手作業ですからその混乱は想像に余りあります。

当時の話を聞きますと、局長以下管理者、並びに郵政局からも応援で人海戦術で年賀並びに郵便物を処理したと言われています。

 

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国労の敗北感とストの中止

国労のスト権ストは結果的には、公共企業体等基本問題会議が「現時点では争議権を認めることは適当でない」とする意見書や、三公社五現業の経営形態変更のに関して今後考える必要があると言った意見を受けて一時期はスト権付与止むを得ずとしていた政府は、一転してスト権付与を拒否する方向に動くこととなりました。

実際、東京築地市場には生鮮食料品を積んだトラックが到着し東京都の消費者物価も上がることもなかったため政府としてもある意味開き直ってしまい、国労としてもストの終結を宣言、いわば完全に国労側というか官公労組側の負けとなりました。

国労は自主的と書いていますが、実質的には敗北です。

12月1日、政府は、専門懇意権書の尊重、経営の在り方や当事者能力の強化など、これまでの「五項目了解事項」以来の経緯を全く無視した内容の「声明」を 発表した。組合側は、一斉に抗議声明を発表した。だが事態はこれ以上の前進はもはや期待できないことも明らかとなった。スト権ストが8日目に入った。12 月3日、公労協は自らの判断で自主的にこのストの収拾を決めた。こうして、8日間、193時間にわたる歴史的なストは自主的に収拾された。

 この辺りは、国鉄スト権奪還スト8日間の攻防NHKスペシャル 戦後50年その時日本は第5巻 から少し長いですが引用させていただきます。

午後6時半、三木は、緊急記者会見に臨んだ。
 「スト突入以来、国民の皆さんの中には、総理である私に、スト解決のために、私の早期の決断を求める人々がありました。しかし、よく考えてみてくださ い。もし政府がその場かぎりの安易な妥協を求めて、違法ストに屈するようなことがあれば、(中略)わが国の議会制民主主義も法治主義も維持できるものでは ありません……」
 三木は、自民党の大勢に乗る選択をしたのであった。
 そして、党見解に沿った五項目の政府声明を読み上げた。「政府はスト権を与えるのかどうか方向を示してほしい」とする記者の質問には「スト権のように国会で議決するものに、今色よい返事をするのは、私にはできない」と答えた。

以下は、5項目

  1. 専門懇の意見書を尊重し、その内容を検討のうえ、具現化に努める。
  2. 公企体の公共性に対する自覚を高め、法秩序を厳守して、労使関係を正常化する。
  3. 特に(経営の)当事者能力を強化し、料金法定主義等、諸般の改正事項を検討し、実施する。
  4. 関係法令を全般的に検討し、必要な改正を行う。
  5. 上記のため、適当な機関を党及び内閣に設け、できるだけ早期に結論をまとめ、行政上の改革など法案の国会提出を行う。

  記者会見の模様は、テレビで中継された。公労協闘争本部でも、幹部たちがこの記者会見に釘付けになっていた。
 首相の発言は、公労協との妥協を拒否するものだった。
 〈一国の首相がそこまで言い切ってしまったら、朝令暮改で一日や二日の間でひっくり返るなんてことはありえない。ああ、もうだめだ〉
 公労協代表幹事の保坂尚郎は、スト権回復は99%ありえないと感じていた。

ということで、公労協側はストによる敗北を感じたと言われています。

結局、スト八日目の12月3日、水曜日。
 公労協は正午から拡大共闘委員会を開き、正式にスト中止を決定。このあと、公労協の幹部らは記者会見に臨み、市川総評議長が声明を読み上げることでストライキは終息に向かうことになります。

 「国民の皆さん、スト権回復の要求は満たされたわけではありませんが、私たちは国民の皆さんの切実な声が限界に達していることを考え、みずからの判断で 闘いをいったん中止します。この八日間、皆さんの生活に多大な支障を与えたことをおわびするとともに、多くの国民の皆さんが、私たちの闘いに対して、今ま でにないご理解とご支援をいただいたことに深く感謝します」

実質的には、公労協の敗北であり、この4年後には国鉄の抜本的解決として国鉄ローカル線問題などを検討する事態となっていくのでした。

 

国鉄当局による組合に対する損害賠償訴訟

 国鉄当局はさらに、国労動労に対して202億円損害賠償請求の訴訟を行うことになります。

 この損害賠償訴訟、後に動労労使協調路線に転換?転向したことで国鉄当局側は取り下げましたが、国労に対してはそのまま継続して裁判が行われることとなりました。

この辺のお話は後程させていただきます。

1976(昭和51)年2月14日、国鉄は、政府・自民党の強い圧力を受けて、東京地裁に、国労動労に対する202億円損害賠償請求の訴訟を行った。国労動労は、ただちに抗議声明を発表するとともに、順法闘争を実施した。

 この損害賠償請求は、きわめて時代遅れのものであり、欧米ではすでに19世紀半ばには、ストなどの刑事免責が当たり前となり、20世紀初めには、ストに対 する使用者からの損害賠償請求についても、粘り強い闘争をつうじ、民事免責を勝ち取っていた。この損害賠償請求は、権利の回復を求める労働者の要求には答 えず、反対に財政的側面からの組合つぶしも意図した不当なものであった。しかも司法の反動化は、下級審にまで及んでおり、この裁判の展開と帰すうは、ほと んど楽観を許さなかった。だが、70年代には決着がつくには至らず、80年代に持ち越された。(80年代の経過については、第2部を参照)。

 

 *******************以下は、国労の資料になります。******************************

 

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 3 8日間のスト権スト
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├○ スト権スト │
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続き

 ストライキは続行された。ところが、12月1日、政府は、専門懇意権書の尊重、経営の在り方や当事者能力の強化など、これまでの「五項目了解事項」以来の経緯を全く無視した内容の「声明」を発表した。組合側は、一斉に抗議声明を発表した。だが事態はこれ以上の前進はもはや期待できないことも明らかとなった。スト権ストが8日目に入った。12月3日、公労協は自らの判断で自主的にこのストの収拾を決めた。こうして、8日間、193時間にわたる歴史的なストは自主的に収拾された。
 公労協は、12月6日、「スト権奪還中間総括」を提案した。そのうえで、76(昭和51)年1月20日、共闘委員会で、「スト権奪還闘争の総括」を行った。国労は12月10日、第115回臨時中央委員会で、公労協の「スト権奪還中間総括」を前提としつつ、76年春闘を最大にヤマ場としてスト権奪還を目指すことを意思統一した。さらに、76年2月の第37回臨時大会で、公労協の「総括」を基本的に承認しつつ国労の立場から、若干の補強をつけ加えて国労の総括とした。その内容は、同年7月の第38回定期大会(札幌市)で、「国鉄労働組合の総括」として決定されたが。基調は先の第115日臨時中央委員会の「中間総括」を骨子としていた。

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├○ 202億円損害賠償訴訟の提起 │
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 1976(昭和51)年2月14日、国鉄は、政府・自民党の強い圧力を受けて、東京地裁に、国労動労に対する202億円損害賠償請求の訴訟を行った。国労動労は、ただちに抗議声明を発表するとともに、順法闘争を実施した。
 この損害賠償請求は、きわめて時代遅れのものであり、欧米ではすでに19世紀半ばには、ストなどの刑事免責が当たり前となり、20世紀初めには、ストに対する使用者からの損害賠償請求についても、粘り強い闘争をつうじ、民事免責を勝ち取っていた。この損害賠償請求は、権利の回復を求める労働者の要求には答えず、反対に財政的側面からの組合つぶしも意図した不当なものであった。しかも司法の反動化は、下級審にまで及んでおり、この裁判の展開と帰すうは、ほとんど楽観を許さなかった。だが、70年代には決着がつくには至らず、80年代に持ち越された。(80年代の経過については、第2部を参照)。

 

続く

国鉄労働組合史詳細解説 39-2

みなさまこんばんは、またまた2週間ほど開けてしまいました。

本日も今一度スト権ストについて考えてみたいと思います。

そして、このスト権ストというのがあらゆる意味で日本の労働運動において分岐点であったと言えそうです。

戦後労働運動の集大成としてのスト権スト

国労動労による(この場合は国労が主導)により行われたスト権ストは、鉄道輸送を麻痺させることで国民生活を混乱に陥れ、よって政府にスト権を認めさせるという基本方針で進められていました。

すでに、国鉄ではスト権容認の方向に動いており、また郵政・電電公社も同様にスト権を容認の方向で動いていたと言われています。

スト権ストは、国鉄当局と組合に部分だけがクローズアップされますが、官公労労働組合VS政府の対立の構図と言えましょう。

 

マル生運動を不当労働行為であると位置づけ、国鉄総裁から謝罪させたことは国労にとっては大きな成果だったかもしれませんが、それはその後に続くJRの分割民営化につながる原因を作ったと言われています。

国鉄は、マル生運動の後遺症から現場は混乱し、現場協議制による現場のマヒが起こっており、車両に関しても保守を最低限にしても動かせるような車両が投入されていた時代でした。

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気動車ではキハ47系列あたりがその代表例でと言えましょう。

そうした中で国鉄労働組合は機は熟したとして突入したストライキでした。

一部地域では列車は動いた

当日は全国で列車が止まる事態となりましたが、鉄労の中でも統一行動がとれなかったそうですが金沢管理局を中心に一部の地域では列車を動かしたと言われています。

北陸本線では、朝は約7割の列車が確保、夕方も約4割の列車が運転されたそうで全体でも4割程度が運転されたと言われています。
同様に、鉄労組合員の多かった東北地域では、

  • 東北本線:仙台鉄道管理局周辺、平日の半分強
  • 奥羽本線:秋田鉄道管理局管内までまたがる秋田、山形周辺、平日の35-45%
  • 信越本線:新潟鉄道管理局周辺、平日の15%
  • 越後線: 新潟鉄道管理局、平日の80%

が運転されたと言われています。

参考 スト権スト wikipedia

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スト権付与を考えていた国鉄、拒否した専門委員会

特にここで注目すべきことは、スト権問題を検討していた公共企業体等関係閣僚協議会という専門委員懇談会が「三公社五現業のあるべき性格と労働基本権問題について」という「意見書」を提出したのですが、「事実上、国鉄や郵政などの官公労働者のスト権を認めない」とするものでした。

少し長いですが、「国鉄スト権奪還スト8日間の攻防」NHKスペシャル 戦後50年その時日本は第5巻から少し長いですが引用させていただきますと。

まず前文で 「争議権は、労働基本権の一つであり当然それ自体尊重さるべきもの」 としながらも
「必ずしも争議権があらゆるものに優先するということにはならない。
例えば、事業の停廃が国民生活や公共の福祉に重大な影響を及ぼす場合、争議権はおのずから制約されざるを得ないであろう」 とした。
 また、国鉄当局などがすでに表明している条件つき付与論についても、次のように批判する。
 「三公社五現業等の争議権問題については、法律で争議行為が禁止されているにもかかわらず現に行われているという事実をふまえて、労使関係を改善して国民の迷惑を少なくしようという期待をもって、争議権を認める方向で処理すべきだという議論もある。
しかしながら、労使関係の点だけに限定して考えるとしても、問題は、争議権を認めることによって労使関係を改善できるという見通しがあるか、また、争議行為を回避できるという保証があるかということである」
 さらに、現状では、どんなかたちにせよ争議権が合法化された場合、
「現在の主流をなす労働組合の体質とその実績からみて、当然の権利として、争議行為が繰り返されることが予想される」 とした。
こうした観点から、意見書は、争議権問題を労使関係の見地からだけで処理しようというのは 「真の解決」 にはならないとして、この問題は経営形態とともに検討されねばならないとうたったのである。

とありますように、当時の国鉄総裁は藤井松太郎であり、国鉄としてはスト権を付与することで解決を図ろうとしたのですが、それを明確に公共企業体等関係閣僚協議会は明確に否定したのです。

さらに、下記のように指摘しています。

分割民営化の可能性はこの時点で指摘されていた。

国鉄郵便事業などについては民営移管や経営形態の変更が困難ないし適当でないとしながらも、この機会になんらかの見直しを行うべきものもあると指摘。


 国鉄については


「現状では経営管理能力の限界を越えているのではないかという判断もあり、その分割による経営単位の縮小化や旅客輸送のための幹線網の運行および中長距離 大量貨物輸送以外の部門についてまで、これを国として所有し、経営することが必要であるか否かはこの際、十分検討すべき」
とした。これは、後の分割・民営化につながる考え方を示したもの、ということができる。

特に、「経営管理能力の限界を越えているのではないかという判断もあり、その分割による経営単位の縮小化や旅客輸送のための幹線網の運行および中長距離 大量貨物輸送以外の部門についてまで、これを国として所有し、経営することが必要であるか否かはこの際、十分検討すべき」ということで、後の土光臨調で言われた、国鉄経営管理能力を超えているのではないかとか、それゆえ分割すべきではないかという点まで踏み込んで発言をされている点は注目すべきかと思います。


よく、土光臨調で国鉄の分割民営化は論議されたと言われていますが、実際にはこのときにはすでに、語られていたことには注目すべきだと思います。

国鉄分割の是非を現在多々言われていますが、こうした問題を議論する場合、その背景の部分まで遡って考えていかないとなかなか見えてこないものがあるのではないかと個人的には思っています。

 

スト権ストは結果的には労働者側の敗北という形で終わりましたが、当時の藤井総裁はこの騒動の責任を取る形で退任、後任には大蔵官僚大蔵事務次官、の高木文雄氏が就任しています。

 

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国鉄労働組合史詳細解説 39-1

みなさまこんにちは、久々に更新させていただこうと思います、私自身もまだまだ勉強中の身であり内容を十分精査できていない部分は多々あるかと思いますが、その際はどしどし御指摘ください。

今回は、国鉄労働者というか、官公労働者の悲願であったスト権奪還スト(いわゆるスト権スト)と呼ばれた国鉄が全国で9日間止まったストライキについてその前段のお話をさせていただこうと思います。

 

昭和23年にGHQにより公務員のスト権は剝奪され、その後現業公務員を含めて公務員にスト権を与えることはありませんでした。

昭和23年のスト権剝奪の背景には、官公労によるストライキ、特に鉄道輸送が止まったときに経済の混乱などを危惧した部分が大きかったと言えます。

実際、道路も分断され海運も壊滅的な状況の中で辛うじて輸送力を確保していたのが鉄道であり、これにより首都圏にすむ住民の食料は運び込まれていました。
こんな状況の中でゼネストが行われたならば確実に都民の生活はストップすることとなる恐れがありました。
この点を一番恐れたのがGHQであり、仮りに暴動にでもなれば収拾がつかないことは自明の理でした。
日本共産党自身も、このゼネストが逆に自分たちの首を絞めるとまでは思っていなかった節があります。その辺はまた別の機会にでもお話しできればと思っています。

時は流れ、昭和50年のスト権ストでは、今までの労働運動で勝利してきた組合側としては、これでストライキ権を奪還できるのではないかという思いがありました。
ここで再び、国鉄ストライキを行えば国民生活に混乱を招き、政府は驚いてスト権を与えるだろうと踏んでいました。

当時は野党であった公明党もこの闘争に参加していて笑えるのですが、その辺はまた別の機会といたしましょう。

 

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しかし、実際にはそうなりませんでした。

政府は、混乱に備えトラック協会を通じてトラックの増便を確保したこともあり東京青果市場にはトラックがどんどん生鮮食料品を届けており、市場は閑古鳥どころか、いつも以上に活気を呈していたと言われています。

国鉄ストライキは、鉄道貨物がなくとも生鮮市場は混乱しないこと、言ってみれば国鉄のシェアが大きく低下したことを証明してしまいました。

結果的に、国労動労が描いた官公労働者のスト権奪還は幻に終わりましたが、実際のストライキを打つまでは、公務員がスト権を奪還でいる可能性があると信じていたのも事実です。

それは、前段として、最高裁が労働者寄りに出した画期的な判決があったからです。
昭和41年に出された全逓(東京)中郵事件で示した、最高裁の判決です。

それは、「公務員(及びそれに準じる者)も憲法28条(勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する)の保証を原則的に受けるべきものだとしました。その上で、この権利の保障と国民生活全体の利益とを比較衡量して両者を調整すべきであり、権利の制限は必要最小限度にとどめるべき」というものでした。

 「全逓(東京)中郵事件」とはどのような事件だったのでしょうか。
事件は昭和33(1958)年3月20日午前2時半に職場を離脱して職場集会を開いたことに対して、郵便法79条1項に問われたもので、最終的な最高裁の判断は無罪となったものでした

郵便法79条1項

(郵便物の取扱いをしない等の罪)
第79条 郵便の業務に従事する者が殊更に郵便の取扱いをせず、又はこれを遅延させたときは、これを1年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。

公務員であっても労働者としての権利(団結権等)は認められると判断したことに大きな意義がありました。

これにより、少なくとも国鉄労働者も時間中に集会を開いたりするのは労働者の権利であると認められたお墨付きをもらったようなものでした。

また、69年4月2日の 東京都教組事件では同じく地方公務員の労働基本権として、
東京都教職員組合の幹部が勤務評定闘争に反対する「一日の一斉休暇闘争」を行うにあたり、被告人らが組合の幹部としてした闘争指令の配布、趣旨伝達等、争議行為随伴する行為は、地方公務員法六一条四号所定の刑事罰をもつてのぞむことは許されないとした判決でした。

 これは、地方公務員が争議行為を行うことを禁止した、

 これらの判決を受けて、公務員であってもある一定の争議は可能であろうと判断がなされたと言われています。

また、当時の世界の流れは公務員であっても労働争議を認めるべきという考え方が一般的であったと言われています。

また、国労によるマル生運動が不当労働行為であるとした、主張が通ったことも国労にとっては有利に働くと判断されたようです。

第六十一条
左の各号の一に該当する者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
一 ~三、五 省略
四  何人たるを問わず、第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者

であり、第三十七条第一項が、争議行為の禁止を謳ったものでした。

第三十七条 (争議行為等の禁止)職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる 怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。

 

当時の世界の流れは公務員であっても労働争議を認めるべきという考え方が一般的でした。

国鉄「マル生」問題でILO提訴を行っていた国労動労は追加資料を提出し、公労協全組合と自治労日教組、国公共闘が、「政府当局のILO87号・98 号条約違反」をILOに提訴しました。第2次ILO闘争は、(1)ストに対する処分が過酷であり、(2)国労動労全逓などの「マル生」等不当労働行為が、 87号・98号条約に違反する団結権侵害であることをILOの場で認めさせ、日本政府に対し、直接「勧告」を求めていた。同年11月9日のILO理事会 で、結社の自由委員会133次報告が承認された。

その辺は、国労の本文から引用させていただきます。

73年春闘では、春闘共闘委と政府の間で「7項目確認」が行われたが、これを受けて、国鉄労使は「処分問題」について、一定の軽減措置ないし回復措置を行うことを確認した。例えば、係争中の解雇・免職事件の和解等については、年度の古いものから取り扱う。履歴書に記載する被処分の記入について、従来の「赤字」記入を「黒字」に変更し、処分抹消後は抹消する等である。74年、75年のストでも、処分政策の変更(処分の軽減、凍結、撤回)など、処分の「段落とし」などの軽減措置がとられた。

このように、マル生産運動中止以降の国鉄の労使関係は、組合が極端に強くなり、当時の公企労レポート等をまだ十分読み切れていないのですが、当局側がかなり弱腰になっている様子が窺えます。

 

 


日本国有鉄道(現在、JRグループ)スト権スト/1975年

 **********************以下、国労の記事からの引用です。*********************************

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 3 8日間のスト権スト
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├○ スト権ストまでの経過 │
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1975(昭和50)年11月26日からのスト権ストは、日本の労働運動史上、空前のストライキであった、このスト権ストに至るには、その前史がある。とくに50年代前半から、60年代に掛けてのILO批准条約闘争では、66(昭和41)年6月14日、ILO87号条約の批准発効により公労法第4条第3項が削除され、団交拒否問題は決着した。だが争議権については、何も解決していなかった。ただILO条件闘争の前進の中で、66年10月26日の1966年 全逓東京中郵事件最高裁判決と内閣の人事政策・司法反動、69年4月2日の憲法判例集(仮):地方公務員の労働基本権 東京都教組事件 最高裁昭和44年4月2日大法廷判決 - livedoor Blog(ブログ)判決で、最高裁として、一定の条件付きで官公労働者の通常のストライキについては、これを刑事罰から解放するという判決が出され、スト権奪還闘争にはずみを与えた。ただし、73年4月25日、全農林警職法事件判決で、最高裁刑事罰を課す逆転判決が、春闘の中で強化された。72年10月30日、すでに国鉄「マル生」問題でILO提訴を行っていた国労動労は追加資料を提出し、公労協全組合と自治労日教組、国公共闘が、「政府当局のILO87号・98号条約違反」をILOに提訴した。第2次ILO闘争は、①ストに対する処分が過酷であり、②国労動労全逓などでの「マル生」などう不当労働行為が、87号・9お8号条約に違反する団結権侵害であることをILOの場で認めさせ、日本政府に対し、直接「勧告」を求めていた。同年11月9日のILO理事会で、結社の自由委員会133次報告が承認された。そこでは、「不当労働行為が事実行われたこと」(134項)、懲戒処分については、「厳格にして峻厳な手数が緩和されるための措置をとったらどうか」をILO理事会が日本政府に重ねて指摘するよう勧告していた(141項)。この勧告は、ストへの懲戒処分(民事罰)からの解放を実現しようとする官公労働者を鼓舞した。この後ILOジェンクス事務局長は、総評と日本政府の直接協議を提案し、第1回協議が72年12月に開かれた。73年2月10日のスト権ストは、そうした背景のもとで決行された。
 73年春闘では、春闘共闘委と政府の間で「7項目確認」が行われたが、これを受けて、国鉄労使は「処分問題」について、一定の軽減措置ないし回復措置を行うことを確認した。例えば、係争中の解雇・免職事件の和解等については、年度の古いものから取り扱う。履歴書に記載する被処分の記入について、従来の「赤字」記入を「黒字」に変更し、処分抹消後は抹消する等である。74年、75年のストでも、処分政策の変更(処分の軽減、凍結、撤回)など、処分の「段落とし」などの軽減措置がとられた。また政府は、75年春闘では、「スト-処分-ストの悪循環は今回限りとしたい」と表明した。スト権奪還闘争は、着実に前進しているかに見えた。だが、司法反動化なども他方で進んでいた。
 しかし、スト権奪還は、73年から75年へ、かなり複雑な動向が錯綜した。73年春闘では、政府と総評との「政・労交渉」で「7項目合意」が成立した。それは、内容では具体性が欠けるが、公務員制度審議会公制審)答申やILO勧告への理解と慎重な対応を政府に約束させていた。だが、73年9月の公制審最終答申では、肝心のスト権については、三論併記のままであった。

続く