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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 38

すみません、1か月以上も放置状態になってしまいましたので、本日は2編アップさせていただこうと思います。

 

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昭和48年から電車化された、特急なは、画像は昭和50年3月9日 最終日の岡山駅構内
現在では考えられないことですが、駅構内への撮影は自己責任の下自由に行うことができた。
特急の助士が構内監視のために乗務員室ドアから顔を出しているのが判ります。

昭和45年(1970年)日本では、戦後初の国際博覧会として日本万国博覧会が開催され内外に日本の復興をアピールしたものでした。

実際、1965年以降日本は急速に豊かになり、空き地も減って自動車も普及、働けば働くだけ給料は増えて家を買うことは資産形成につながると競ってマイホームを買う、そんな時代でした。

そんな中、全逓の委員長が提唱したやや右よりと取れる社会党民社党による共産党排除の反共統一論が注目されました。

その主張は、

自民党に代わる新しい政権の確立を目標として、労働戦線を統一することが急務であり

  1. 労働運動に分裂と混乱をもたらしている共産党と絶縁す ること
  2. 労働運動における階級闘争至上主義か労使協調主義かの観念論争と組織争奪を一時停止すること
  3. 労働戦線を新しいケースと環境に適合し た産別組織に再編すること
  4. 労働戦線統一の達成という基盤のうえに社会党民社党の再統一を期待する
    という4項目をであり、民間労組や同盟には高く評価されたものの総評内では反対も多かったと言われています。

これは、経済が発展していく中で、成果の再配分が正常に行われている状況の中で従来のような公労協が中心となって戦う労働運動方式が時代遅れになりつつあるという認識に立っていたのだと言えます。

当時を振り返ってみれば、民間労組では、労使協調による成果の再配分と言う方針が一般的となり、かっての三池争議のような激しい労働運動は影を潜めていましたが、全逓国労などいわゆる公労協は対立の構図を崩しておらず、民間労組が実を取ったのに対し、公労協は自らの交渉で賃金を決定できるわけでも無く、結果的に政治的駆け引きが運動の中心とならざるを得ない状況なっていきました。

また、そのようになったのか、その背景等は下記のように指摘されています。

大原社会問題研究所の、日本労働年鑑 第52集 1982年版 特集 労働戦線統一問題

「労働戦線統一」運動の展開と挫折(一九六〇年代末~七三年七月)から引用させていただきますと。

いうまでもなく、「高度成長」の展開、産業構造の高度化に関連する労働組合運動における民間大企業労組のウェイトの増大と〃総評ばなれ〃があった。加え て、六七年一月の衆議院選挙の結果、公明党が進出し、野党の〃多党化〃現象が顕著になった。宝樹論文は、そうした背景のもと、民社をも吸合した社会党政権 樹立、そのための共産党排除とそれを前提とした「戦線統一」を提唱したものであった。このように、「戦線統一」と政権構想が車の両輪のごとく組み合わされ ていた。

総評の方針がジリ貧になるのではないかと言う危機感からだと言われています。

そして、それが、全逓宝樹文彦委員長の論文「労働戦線統一と社会党政権樹立のために」(『月間労働問 題』67年1月)、「1970年代の労働運動推進のために」(読売新聞70年1月1日)と言う記事による、共産党主導による労働運動は結果的に、労働者と民衆の勢力を分断する恐れがあるとして反対を唱えたものであるといえます。

宝樹文彦氏は、「二・一ゼネスト以降を頂点として共産党には労働運動を指導する識見も能力もなかった」という評価を下しています。

さらに、国労のお話から少し外れますが、鉄労が加盟する同盟などは、どの様な評価をしたのでしょうか。
再び、大原社会問題研究所の、日本労働年鑑 第52集 1982年版 特集 労働戦線統一問題「労働戦線統一」運動の展開と挫折(一九六〇年代末~七三年七月)から引用させていただきますと。

同盟、全民懇の動向

 同盟は七〇年二月の第六回定期大会で決定された七〇年度運動方針のなかで、労働戦線の統一問題について、従来の態度を一歩すすめ、つぎのような考え方を明らかにした。また、その方針にもとづき、労働戦線の統一・結集のよびかけを準備する動きを示した。

 (1)民主的労働運動への転換が急激にすすむなかで、第一義的には、これらの民主主義労働運動を志向する組織を同盟に組織するよう全力をそそぐ が、それのみに固執せず、さらに広くよびかけ、新しい運動の開拓と建設にとりくむ。
(2)これらの組織と共同行動を協議する場をつくるようよびかける。
(3)よびかけは、まず民間労組を対象としておこない、既存の全国組織や産別組織にこだわらない。

 全民懇は、七〇年三月の第二回会合で、参加組合を一九労組にふやし、懇談会の名称から「主要」をはずして、「全国民間労組委員長懇談会」に改め た。そして六月の第三回会合では、参加組合数を一挙に二三九組合にひろげた(内訳は総評系一四組合、同盟系六三組合、中立労連系四五組合、新産別系二一組 合、純中立二三組合、無所属七三組合)。この会合で民間労働戦線統一に果たす全民懇の役割を確認し、「戦線統一促進についての提唱」を採択した。そして、 「ナショナル・センター次元の統一は望ましいが、いずれも自己の立場にとらわれすぎて、現実には無理である、強力なナショナル・センターをつくるには、そ れを支える産業別組合の再編がすすみ、強化されることが前提になる。したがって、第一段階は、民間単産を中心にして、できるところからゆるやかな連絡協議 会を設置し、統一へのプログラムを作成していく」方針を明らかにした。

 と書かれており一定の評価はしているようですが、急進的な組織再編については否定的な見解を示していることが伺えます。

 

そうした総評を中心とした労働再編の動きは、大阪などの地方での「民間連絡協議会」(民労協)や民間大企業労組委員長による「全国民間労組委員長懇談会(全民懇)などの形で始 まっわけですが、国労は、この時期、「マル生」粉砕闘争で歴史的な勝利を獲得した時期であり、72年春闘 では交通共闘の成功もあって、社会党を中心とした政権奪取という、総評の方針を積極的に支持したと言われています。

しかし、民間先行による労働再編を進めようとした労組の多くは、「生産性向上運動」 に賛成しており、国労の立場とは両立しなかったと言われています。

 

 

 

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昭和47年第33回衆議院議員総選挙 Wikipediaから引用

参考 第33回衆議院議員総選挙 - Wikipedia

 
 72年の総選挙で、社会党が前回の失地を回復したが、日本共産党もが躍進したため、共産党排除の政権構想と車の両輪であった労線再編に大きな影響を与えた。ま た73年春闘の高揚に見られる総評の戦闘的成長に体し、同盟側は警戒と批判を強めた。73年7月、形成されていた22単産会議では、統一への合意が得られ ず、民間先行の第1次労使再編は挫折したのですが、この論文を契機としてその後の連合の再編へとつながっていくことになります。


 

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参考 昭和47年第33回衆議院議員総選挙 Wikipediaから引用
社会党が90、共産党は14であり、こうした背景から民社党(民主社会党日本社会党の合流)が上述の宝樹論文につながったと言えます、実際この論文がその後の連合設立の契機となったことは間違いありません。

 

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 2 国鉄朗々組合新綱領の採択
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├○ 民間先行の労働戦線再編運動-国労新綱領づくりの背景 │
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60年代末から民間先行の労働戦線再編の動きが活発化し。その契機は全逓宝樹文彦委員長の論文「労働戦線統一と社会党政権樹立のために」(『月間労働問 題』67年1月)、「1970年代の労働運動推進のために」(読売新聞70年1月1日)で、前者は労働組合の産業別再編、社会党民社党にの統一による政権を展望し、共産党排除の反共統一論で、右よりの再編であった。
 労働再編の動きは、大阪などの地方での「民間連絡協議会」(民労協)や民間大企業労組委員長による「全国民間労組委員長懇談会(全民懇)などの形で始 まった。総評は、70年8月の大会で、全ての組合、すべての労働者の大結集、選別の排除を軸とした「労戦統一14原則」決定し、72年の8月の大会では、 共同行動の強化、労働運動の主体性の確立など「労戦統一17方針」を決定した。国労は、この時期、「マル生」粉砕闘争で歴史的な勝利を獲得し、72年春闘 での交通共闘の成功もあって大変高揚期にあり、総評の方針を積極的に支持した。民間先行による労働再編を進めようとした労組の多くは、「生産性向上運動」 に賛成しており、国労の立場とは両立しなかった。
 72年の総選挙で、社会党が前回の失地を回復し、日本共産党が躍進したため、共産党排除の政権構想と車の両輪であった労線再編に大きな影響を与えた。ま た73年春闘の高揚に見られる総評の戦闘的成長に体し、同盟側は警戒と批判を強めた。73年7月、形成されていた22単産会議では、統一への合意が得られ ず、民間先行の第1次労使再編は挫折した。だが、その年の11月には、民間労組共同会議が結成され、76年10月に結成された政策推進労組会議とともに、 70年代末~80年代の労戦再編の動きにつながっていった。

次回は、国労新綱領の作成と採択になります。

国鉄労働組合史詳細解説 37

すみません、1か月以上放置してしていました、今回は第1次石油ショックのことについて少しお話をさせていただこうと思います。

石油ショック(もしくはオイルショックと呼ばれる場合もあり)ますが、これは二つの側面がありました。

中東戦争により、原油の公定価格上昇並びに経済制裁などを受けたこと。
当時の日本は、石炭から石油への主たるエネルギー源を1960年頃から置き換えており、73年頃はエネルギーの殆どを石油に頼っていたためその影響をまともに受けたこと。
日本外交により、日本は中東の友好国として認定されて経済制裁からは外れたのですが、政府は引き続き、国民向けにはマイカーの使用自粛や広告ネオンの消灯、テレビ放映時間の短縮といったことが行われました。

その反面、企業による悪質な買い占めなどで卸売物価は上昇し、逆に経済成長は縮小、戦後続いてきた高度経済成長はここに終わりを告げることとなり、初めてのマイナス成長を記録しました。

実際に買い占めにあった例として、トイレットペーパーの買い占めがありました。

企業による買い占めや売り惜しみが起こり、トイレットペーパーが不足するという異常な事態となり物価は急上昇していきました。

この原因は、どうもちょっとしたデマが拡散していったことが原因のようで、その辺はwikipediakから引用してみようと思います。

 1973年10月16日、産油国原油価格を70%引き上げることを決定したため、当時の田中角栄内閣の中曽根康弘通商産業大臣が「紙節約の呼びかけ」を10月19日に発表した。

  このため、10月下旬には「紙がなくなる」というデマが流れはじめ、同年11月1日午後1時半ごろ、大阪千里ニュータウンの千里大丸プラザ(現:ピーコックストア千里中央店・オトカリテ内)が、特売広告に「(激安の販売によって)紙がなくなる!」と書いたところ、300人近い主婦の列ができ、2時間のうちにトイレットペーパー500個が売り切れた。
 
 その後、来店した客が広告の品物がないことに苦情をつけたため、店では特売品でないトイレットペーパーを並べたが、それもたちまち売り切れ、噂を聞いた新聞社が「あっと言う間に値段は二倍」と書いたため、騒ぎが大きくなり、騒動に発展した。

 当時は「第四次中東戦争」という背景もあり、原油の高騰により紙が本当に無くなるかもしれないという不安心理から、各地でデマが飛び火し、行列が発生したため、マスメディアにも大きく取り上げられ、パニックは全国に連鎖的に急速に拡大した。高度経済成長で大量消費に慣れていた日本人が急に「物不足の恐怖」に直面したために起こったパニックとも言われている。パニックの火付け役は新聞の投書だとする説もある。

どうも、最初の火付け役は新聞が原因とも取られかねないのですが、この余波は全国に瞬く間に広がり、トイレットペーパーに限らず日用品が売り場からなくなるという事態にパニックになったと言われています。

ということで、石油ショックを直接の契機とするものではないものの、それと連動した

 

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引用 独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構[JOGMEC]

集団心理のなせる業だとも言えます。

またこれに連動して便乗値上げや買い占めが相次ぎ、物価は上昇していくこととなりました。

そこで、総評は「インフレから生活を守る国民春闘」と位置づけ活動することとなりました。

74年 全体では、卸売価格が31.3%、消費者物価が24.5%上昇。国民生活は、生活防衛が最優先課題となりました。

実際の石油価格上昇による物価引き上げは、経済企画庁の試算によれば、73年10月から74年3月までで、消費者物価を7.8%引き上げた効果はあるとしたものの、実際の上昇から見れば小さいものであり、企業などが買い占めや意図的な値上げにより発生したものと考えられました。

また、1974年の経済成長は戦後初めてマイナスを記録することとなり、高度経済成長と呼ばれた時代の終焉を演出することとなりました。

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引用 独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構[JOGMEC]

国労を中心とした、総評は公労協を中心に設定した3・1ストで、生活困窮者や働く国民の問題を含めて政府と対決することとしたようで、国労の思惑はさらにここでスト権解決の軌道に乗せようとすることも併せて考えていたようですが、スト権問題まではうまくいかなかったようです。

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 なお、国労としては、①受験列車、②生鮮食料品・生活必需物資列車に関しては一定の配慮を図ったものとなりました。

これは、世論からの批判を避けるといった思惑もあったようです。

しかし、今までは聖域とされてきた新幹線も含めた全面的な停止は国鉄としても初めてのことでした。
この争議は、4月9日から 13日にかけて行われ、官民一体のゼネスト体制により会社では、前日から泊まり込みの態勢が敷かれた会社などもありました。

 

当時はこのような交通ストを中心としたストライキは春の風物詩と言われたものでしたが、民間ではストライキそのものが減少していく中で公労協を中心としたストライキは結果的には利用者に受け入れられることはなく、特に貨物輸送などは顕著で、市場関係者による生鮮食料品輸送などは、トラック輸送で行われるようになっており、昭和50年の、スト権ストでは政府が困るだろうと思っていたら気が付くと政府ではなく、組合が逆に面食らったという話につながっていくのですが、その辺の話はまた後程させていただこうと思います。

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 1 国民春闘への高揚
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├○ 狂乱物価と74年国民春闘 │
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73年秋、第4次中東戦争が勃発し、石油産出国は原油価格の大幅値上げを行った。一次エネルギーの90%を輸入に依存していた日本は、痛烈なショックを 受けた(第一次オイルショック)しかも、これを機会に生活必需品の品不足が「演出」されたり、価格引き上げが行われ、”物価”は狂乱状態となった。74年 全体では、卸売価格が31.3%、消費者物価が24.5%上昇した。国民生活は、生活防衛が最優先課題になった。74年春闘は12月4日、公労委が「応急 手当として年度末手当0.3ヵ月分を年内に繰り上げて支給する。」調停案を出したが、秋季年末段階から始まっていた。73年10月12日に発足した74春 闘共闘委は、「インフレから生活を守る国民春闘」と名付けれられた。
 公労協を中心に設定した3・1ストは、国会の予算審議のヤマ場で、社会の底辺にある生活困窮者や働く国民の問題を含めて政府と対決し、院内外での革新政党等の共同行為によって国民春闘の路線を敷き、スト権問題でも政府を引き出して解決の軌道に乗せようとしたものであった。
 国労は、新幹線を含む太平洋を縦断し、青森~熊本を結ぶスト戦術を決定した。その際、①受験列車の運転、②生鮮食料品・生活必需物資列車の運転などを初 めとする具体的対応策を行い、政府や自民党、財界の世論操作を含む攻撃をかわした。3月26日にも大規模なストが行われたが、4月決戦の中で、9日から 13日にかけて、官民一体のゼネスト体制により、春闘史上空前の闘いが展開された。この決戦に参加した労働者は58単産、600万人に及んだが、その中核 となったのは公労協と交運の統一ストであり、とくに国労の全職場におけるスト、動労の拠点スト、私鉄を中心とした交通のストであり、日本の交通機関は数日 間にわたってマヒ状態になった。国労は、この春闘決戦において、文字通り中核的役割を果たした。この闘いに参加した国労組合員は22万人にのぼった。全国 ストは、実に5日間約110時間余りにわたった。
 4月13日、公労協平均で27,691円、29.22%の調停委員長見解が示された。政府によるインフレ福祉手当、各種年金の繰り上げ支給も行われた。 スト権問題については、「五項目合意」が政府と春闘共闘委の間で成立した。春闘における賃上げ率・額は史上最高であり、ほぼ30%程度の引上げとなった。 74年春闘の総括では、インフレから生活を守る国民春闘として闘われたことに着目し、「国民春闘」という言葉が使われるようになった。

国鉄労働組合史詳細解説 36-2


34 - 国電乗客暴動 - 1973

すみません、2週間もまた空けてしまいました。

本日も書かせていただこうと思います。

今回は、上尾事件と首都圏国電事件ということでこの辺を少し掘り下げて述べてみたいと思います。

上尾事件とは?

最初に上尾事件とはどのような事件だったのか簡単に振り返ってみたいと思います。

上尾事件は、、1973年(昭和48年)3月13日に旧日本国有鉄道高崎線(現在の東日本旅客鉄道高崎線上尾駅(埼玉県上尾市)で旅客が起こした暴動事件で、連日の動労による順法闘争、(1)列車の安全運転に関する規程を厳格に守って列車を遅延させ、運行を混乱させる安全運転闘争でした。

 当時の国鉄の組合にはスト権は無かった

国鉄職員は準公務員であり、ストライキ自体は法令で禁止されていましたが、法令を過剰に解釈して順守する戦術により、ストライキではないので違法ではないという論理で行われたサポタージュでした。

動労国労の戦術として1950年半ば頃(昭和30年頃)から行われていましたたが、マル生運動勝利【組合側から見て】以後のこの時期は、さらに「スト権」を確立するための手段として取り入れられていました。

特に力を入れたのは、国労が発表した『危険白書』(1972年12月15日から1973年(昭和48年)1月14日に行われた人命尊重、運転保安確保、設備改善総点検第一次強化月間の調査結果)を基に、踏切の支障発見と長距離機関車を対象とした「超安全運転」の新戦術を行うこととしました。
例えば橋梁の枕木が老朽化していると言った場合すぐにそれが脱線等の影響はないにも関わらず危険であるから徐行するとか、踏切の見通しが悪ければ危険が潜むから徐行するなど、あらゆる形でいわゆる超安全運転・・・。
1車線の高速道で最低速度で走る自動車のようなものですよね。(^-^;

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順法闘争は2月から波状的に行われていた。

国労動労は、国労の示した『危険白書』に基づく運転を行うことで列車の遅れは慢性化していきます。

1973年(昭和48)年2月1日から始まった順法闘争は開始されました。
その時のスローガンは「国鉄運賃値上げと武蔵野線開業に伴う人員合理化反対」であり、こうした合理化反対闘争と呼ばれるものが国民の意向とは別に行われて行きました。
8日からは、強力順法闘争というものが行われ、首都圏無ダイヤ状況となりました。
この頃から列車の遅れは慢性的となり、乗客の憤懣は頂点に達しつつありました。

さらに、上尾事件が起こるのは、3月5日から始まった強力順法闘争であり、並行して労使の話し合いは行われていましたが、マル生闘争の勝利もあったのか、国労動労側も強い姿勢のままで取り組むことになりました。

動労は特に3月5日から17日まで「人命尊重・安全対策要求全国統一行動月間」として強力順法とストの断続という闘争方針を決定。
ますます混乱を招くこととなりました。

「順法闘争」とはどんなもの?

具体的にはどのような形で。「いわゆる順法闘争」は行われたのでしょうか。

例えば、信号が注意信号だから45km/h減速で通過するのが本則でありますが、これを過剰解釈して一旦停止してから安全を確認、そして運転再開と言った具合で。
いわば教習所で車を習う状態ににていますよね、そうしてあらゆる理由をつけて列車を遅らせたのです。

動労の要求事項とは?

この時の動労による要求は、国鉄過密ダイヤ区間、長大トンネル、深夜などの二人乗務務の復活や、無人踏切の立体交差化など9項目とされて入り、正直、簡単に応じられる内容ではありませんでした。
これに対して国鉄は要求を拒否するとともに、闘争による影響が大きく、社会的にも放置できないと判断したため、国鉄当局は公労委に斡旋申請を行うこととなりました。

その後も精力的に話し合いは行われましたが、10日頃、高崎線では線路の降りる人が発生したことなどから国労は戦術ダウンを行い、貨物中心の順法闘争を計画することにしましたが動労は戦術を堅持したのですが、2月からの断続的な順法闘争に嫌気がさしていた乗客の不満に気づくことなく、翌日に上尾事件に繋がることとなったのです。
マスコミなどでは、被害にあった車両は2ドア車の急行形(165系)があったことが原因と言っていますが、本当はそうしたことが原因ではなくそれまでの順法闘争に嫌気がさしていたという側面を忘れてはいけないと思います。

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なお、当時の記事などから引用しますと、国民はつくづく順法闘争に嫌気がさしていたことが伺えます。

以下、引き続き引用したいと思います。

(『朝日新聞』3月12日)

電車からおりようと思っても、混んで出口まで行けず、次の駅まで運ばれたのが三回。逆方向の電車がなかなか来ないので大幅遅刻。

府中市の中学一年 13才

肉体的な疲労が精神的なストレスを起こします。朝起きて、ああきょうも混むなと思ったとたん、もうイライラ。仕事の能率が上がりません。

調布市の会社員55才


毎日新聞』1973年3月7日

順法闘争はいつもだらだら行われてきており、公労委が斡旋などしてもムダだと思っていた。われわれ乗客としては、抗議方法を見つけて音頭をとれば、私自身も積極的に加わりたい気持ちだ。ただ、暴力などによる抗議はすべきでないと思うが、感情的になる人が出ても当たり前で、私はそんな場面に立ちあってもとても止める気にはなれない。

日野市の会社員 37才

今日も新宿駅で押されて、ハンドバッグをホームに落とし、踏まれて泥んこになりました。労組側は国鉄当局を相手に闘争しているのではなく、まるで国民に挑戦しているみたい。

東京・杉並区の女性会社員 19才

起こるべくして起こった上尾事件

なお、上尾事件は起こるべくしておこったという意味合いが強く、上尾駅では、今井助役に対してコンコースで十数人による吊し上げが行われていた。という表現もあるように連日の電車の遅れは乗客にとっても我慢の限界であったと言えましょう、特に国労が12日以降の強力順法闘争を中止する中で、動労は闘争を継続したため、「動労の目黒委員長を出せ」と詰め寄る乗客もいたと言われています。.この辺は注目すべきことかと思います。

そして当日、連日の順法闘争(動労)による通勤列車の遅れに怒った乗客など約6000人が、駅長室・線路に乱入し、施設を破壊、暴徒化した乗客の怒りは収まらず、夜まで高崎線が運休することとなりました(上尾事件)。

国労上尾事件での世論の反応を見て、反「合理化」闘争の決戦スト=3・20ストを延期したのですが、これはある意味賢明な判断であったと言えましょう。

 それでも、寝台列車などでは二人乗務が残されましたが、1974年(昭和59年)10月19日に発生した「寝台特急富士」の脱線事故のように運転士と助士 の連携が取れず(当時、機関助士が機関士に注意を喚起すると「余計なことをするな」と恫喝されることがあり、この機関助士はそれを恐れて何もしなかったと 証言 wikipediaから引用)とあるように、結果的には何の効果も生み出さなかった訳です。)

 

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 1 国民春闘への高揚
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├○ 上尾事件と首都圏国電事件と春闘 │
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73年3月13日の朝、連日の順法闘争(動労)による通勤列車の遅れに怒った乗客など約6000人が、駅長室・線路に乱入し、施設を破壊して暴動化し、夜まで高崎線が運休する事件が起きた(上尾事件)。国労上尾事件での世論の反応を見て、反「合理化」闘争の決戦スト=3・20ストを延期した。
 国労は、4・17年金ストの後、春闘の最後の追い込みと処分闘争、27日から全国主要幹線で72時間ストを決めていた。国労が順法闘争に入った24日夕 刻から26日の強力順法闘争、27日から全国主要幹線で72時間ストを決めていた。国労が順法闘争に入った24日夕刻から、東京山手線、京浜東北線の上野 駅を初め、大宮、川口、東京、渋谷、新宿、池袋など38駅で、帰宅中の通勤客が右翼の挑発も絡んで暴動化し、施設破壊や放火、現金略奪などが行われる事件 が起き、逮捕者も138人に及んだ、両事件には挑発グループが介在しているとマスコミも指摘したが、総評と国電事件調査委員会は、『3・13上尾、4・ 24首都圏国電事件調査報告書』をまとめた。
 国鉄労働者はこの困難を克服して、4・27交通ゼネストが決行された。新幹線も初めてストに入った。この結果、春闘共闘委と官房長官との「7項目合意事 項」。処分問題や不当労働行為をめぐる国鉄労使交渉が行われ、公労委調停委員長見解(国鉄は14,801円で、私鉄の14,700円を上回った)が出さ れ、収拾された。、
 
続く

34 - 国電乗客暴動 - 1973

国鉄労働組合史詳細解説 36

 所得倍増計画と経済成長

昭和35年【1960年】時の首相、池田勇人首相が提唱した国民所得倍増計画を策定し、経済優先の路線を進むこととなりました。
国鉄もそれに呼応するかのように老朽資産の更改とともに輸送力の増強にも力を入れることとなり東海道新幹線の建設などもこれに呼応して作られたと言っても過言ではありません。

高度経済成長はその反面多くの矛盾も生じさせました、インフレによる諸物価の値上がりや公害問題【四日市ぜんそく 水俣病イタイイタイ病など】といった公害病など、多くの問題が生じました。

*1|四日市市環境部環境保全課 四日市公害と環境未来館 公式サイト

*2 水俣病資料館

*3 富山県イタイイタイ病資料館

 ①大都市問題:公害問題、通勤地獄、住宅環境の悪化、

 ②大都市圏と地方圏の所得格差、生活水準格差の拡大 etc

特に四日市ぜんそくの場合は、コンビナートにおける脱硫装置を当時きちんと設置しておけば防げたものであり、それを設けずに煙突を高くしたことで被害を拡散させたと言われています。

民間労組は総評から同盟へ、もしくは労使協調路線へ

なお、高度経済成長に歩調を合わせるように民間では、労使対立から経済優先路線に乗った労使協調路線に方向が変換されていったのもこの時期でした。
昭和39年の春闘では、池田勇人首相が太田薫総評議長と会談し、公務員と民間の賃金格差をなくすことで合意するなど、公務員労組にあっても政治的に政府と対立する要素はなくなっていったと思われるのですが、経済成長の恩恵で春闘相場は年々上昇し、70年、71年春闘では、5ケタ回答=1万円以上が多くなり。賃上げ率も10%台に達しました。

当時の公務員の人の話を聞くと、毎年毎年給料が上がっていくのが実感出来たと言われています。
実際、昭和40年代には大学卒で3万円程度であった初任給が昭和52年には10万円を超えていますからいかに賃金上昇が大きかったか伺えます。

参考:労務安全情報センター(日本の新規学卒者/初任給の推移)

国鉄には限りませんが、当時の賃金決定の流れを見ていますと。日本の基幹産業と言われた、IMF-JC(国際金属労連日本協議会)に加盟している鉄鋼、造船、電機などが春闘相場を作り、それを受けて中労委が私鉄賃金、そのあとに公労委が国鉄、電電などの公企労の賃金を決めて、そのあとに人事院勧告によって国家公務員の賃金決定、地方公務員の賃金決定という流れになっていました。
特に公務員の場合はベースアップの改定が9月頃の差額精算という形で調整されていたように思います。

そこで、前置きが長くなったので国鉄の様子を見てみようと思います。

マル生運動中止で意気上がる国労

国鉄ではマル生運動の中止により、国労動労の労働者にとっては明るい話題であったとはいえ、中間管理職は冬の時代を迎えたと言われています。
特に現業機関の助役は、本来の業務に加えて、便所掃除や駅での清掃など下位職も代行せねばならず、現場によっては現場協議と称する管理者の吊し上げなどが行われたりしたと言われています。

合理化反対と運賃値上げ反対と大幅ベースアップ獲得の矛盾

マル生運動中止翌年の1972年(昭和47年】2月の第98回中央委員会では、1万6100円プラス5.5%の大幅賃上げ、スト権奪還、「マル生」運動完全粉砕、ヤードの統廃合やローカル線廃止な どの「合理化」反対、国鉄運賃値上げ反対と絡めて国民大衆とともに闘うことを決めた。

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矛盾していると思うのは私だけでしょうか。それとも、国鉄は打ち出の小づちを持っていたのでしょうか?

最後の運賃値上げ反対と1万6100円プラス5.5%の大幅賃上げの獲得というのは極めて矛盾した内容であり、「合理化」反対して、賃金上昇を獲得してさらには、収入源である運賃値上げに反対して国民と呼応するというのは冷静に考えるとすごく矛盾していると思うのですが、当時の組合ではそうした概念は無かったようで、官公労働者の申し訳ないが浮世離れした感を拭いきれないものがあります。

違法ストライキで賃上げ獲得という矛盾

また、この当時は春闘で列車が止まるのは春の風物詩として定着した感があり、市民も手慣れたものでしたが、大手私鉄10社ということで当時でも大手は14社あるので一部の私鉄はストライキに参加しなかったといえます。
なお、関西では近鉄ストライキしない鉄道として記憶しています。

>27日始発からストに入った。全国で2500万人という大きな影響が出て、「交通ゼ ネスト」的模様を示した。

マル生運動中止以後は、現場の声が強くなり国鉄内部は混乱

さらに注目すべきは、この頃から現場の声が強くなりそうした意向は車両製造にも反映されることとなりました。
そのため、当時の113系や115系では運転席が153系や165系並に広くなったり、103系ATC準備車がATC装置を床下に置かずに室内に置くことで乗客スペースを減らすと言ったおよそ利用者不在の車両が作られていくこととなりました。

この辺はまた別の機会に書かせていただきます。

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運転台直後の下降窓が無い製造当初のタイプ、運転室が狭い

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パノラミックウインドウと乗務員ドアの間に小さな下降窓が設けられており、その分居住性が改善された運転室
この対応が登場した背景には運転士による室内環境の改善が反映されている。

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 1 国民春闘への高揚
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├○ 70年代初めの春闘 │
└────────────┘

春闘は、60年代後半、一層大衆化した。同時に、高度経済成長の矛盾が噴出するなかで、賃上げ以外の要求も多様化した。賃上げでは64年の池田・大田会議 で、民間賃金と官公労働者の賃金とのリンクの仕方が、いわゆる民間準拠として、事実上確認され定着した。国労の60年代後半の春闘は大幅賃上げととも に、相次ぐ「合理化」に対する春闘でもあった。70(昭和45)年春闘では、総評は「国民諸要求を獲得する闘いの先頭に立ち」。「一五大要求」を掲げ、国 民春闘への最初の足がかりとなった。
 他方、IMF・JCを中心とする民間大企業労組の影響力も強まり、60年代末以降の労働者再編の動きや春闘の相場形成において、事実上の中心となっていた。民間大企業労組の比率は、60年代末には総評より同盟が組合員数で多数派となった。春闘相場は年々上昇し、70年、71年春闘では、5ケタ回答=1万円以上が多くなった。賃上げ率も10%台に達した。
 72年の国労春闘は、「マル生」粉砕闘争で勝利した後の春闘であり、組合員が復帰した職場では歓迎団結集会が開かれるなど職場は明るい雰囲気がみなぎっ た。2月の第98回中央委員会では、1万6100円プラス5.5%の大幅賃上げ、スト権奪還、「マル生」運動完全粉砕、ヤードの統廃合やローカル線廃止な どの「合理化」反対、国鉄運賃値上げ反対と絡めて国民大衆とともに闘うことを決めた。この春闘は、4月27日、28日に設定された交通運輸と公労協の統一 ストが、事実上の決戦ストとなった。国労動労・私鉄大手10組合は、27日始発からストに入った。全国で2500万人という大きな影響が出て、「交通ゼ ネスト」的模様を示した。この年、調停委員長見解に示された国鉄の賃上げ額は10,162円、12.9%であった。
 73年春闘は、田中内閣の『列島改造論』のもと、異常な自家の高騰やインフレを招き、国民生活に影響を与えていた。この春闘では、二つの特筆すべきストが行われた。
 一つは、2月10日の公労協、公務員共闘のスト権ストである。このストは、官公労働者のスト権を統一ストによって奪還する意思を内外に表明するストであ り、我が国の労働運動史上初のスト権ストであった。国労は当日、運転区を中心に10拠点で半日ストを決行した。いま一つは、4・17年金ストであり、53 単産、350万人が参加した。年金ストは、年金額の改善と物価スライド制、掛金の積立方式から賦課方式への切り替えを要求していた。国会では年金改正法案 が審議されており、年金ストは国民的要求を反映し、政府との実質的交渉を迫るものであった。73年9月に修正可決された年金改正案は若干の改善と物価スラ イド制の導入が行われた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 35-2

気が付けば2週間以上も開けてしまいました。

今回もマル生運動の第2部としてアップさせていただきます。

申し訳ありません、今回も1次資料として、昭和46年10月3日開催の衆議院運輸委員会日本国有鉄道に関する小委員会の議事録から引用させていただきました。

この公明党【当時は野党】の質問だけで判断することは不可能ですが、マル生運動に対して野党は格好の攻撃材料ができたと思ったのかもしれませんが。

この辺には、磯崎総裁の苦悩がにじみ出ているようです。

国会でマル生運動撤回について質問を受ける磯崎総裁

少し長いのですが、衆議院運輸委員会における、公明党松本 忠助議員【東京9区】からの質問です。

 

第066回国会 運輸委員会日本国有鉄道に関する小委員会 第3号
昭和四十六年十月十三日(水曜日)
    午前十時十七分開議
 出席小委員
   小委員長 徳安 實藏君
      宇田 國榮君    加藤 六月君
      關谷 勝利君    古屋  亨君
      箕輪  登君    内藤 良平君
      松本 忠助君    河村  勝君
 小委員外の出席者
        運輸委員長   小峯 柳多君
        運輸省鉄道監督
        局長      山口 真弘君
        日本国有鉄道
        裁       磯崎  叡君
        運輸委員会調査
        室長      鎌瀬 正巳君
    ―――――――――――――
十月十三日
 小委員久保三郎君及び内藤良平君同月十一日委
 員辞任につき、その補欠として久保三郎君及び
 内藤良平君が委員長の指名で小委員に選任され
 た。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 日本国有鉄道に関する件
     ――――◇―――――
○徳安小委員長 これより運輸委員会日本国有鉄道に関する小委員会を開会いたします。
 日本国有鉄道に関する件について調査を進めます。
 質疑の通告がありますのでこれを許します。松本忠助君。
○松本(忠)小委員 私は去る九月十日に開会されました当小委員会におきまして初めて発言をいたしました。その発言の内容についてくどくどしく再度申し上げる必要もございません。要は、国鉄再建の基本的な問題をもっともっと協議したい、各党間の意見も出し合って煮詰めたい、

中略
 そこで、この問題はそれぐらいにしまして、次にいま一番の問題になっているところのマル生の運動についてお伺いしたいと思うわけです。衆議院におきましても社会労働委員会あるいは法務委員会、こういうところで問題が取り上げられました。問題はほとんど出尽くしておりますので、二、三の点についてのみ伺いたいわけでございますけれども、総裁、まずお伺いしたいことは、一昨十一日に談話を発表されております。私もその談話を新聞で見させていただきました。またプリントも見させていただきました。いろいろと検討いたしてみました。

総裁が去る八日公労委から発せられた命令を受諾し、かつ実行すること、このように談話の中で言われております。百八十度の急転回を行なったわけでございまして、この勇気を私は一応評価いたしたい。

国鉄の不当労働行為、この事件で公労委が国鉄当局に陳謝命令を出したのは、私の記憶では昭和三十五年以来今回の静岡鉄道管理局事件で四回目だと記憶いたしております。過去三回の事件では、国鉄当局ではいずれも不当労働行為ではない、こういって不服だとして訴訟に持ち込んでおります。

 今回は、八日の時点の国鉄総裁の考えと十一日のお考えでは、時間的には七十数時間でございますけれども、たいへんな相違がある。急転回が行なわれておる。

 この点について私はどうして総裁がそのような心境の変化を来たしたのか。いま、国鉄の労使の関係、この紛争問題は全国各地の職場で展開されている。労使とも引くに引けないどろ沼に落ち込んだ様相ではないかとも思っております。

 大きな社会問題化しているということもいえると思います。言うならば労使が従来のメンツにこだわり過ぎていたのでは解決のめどがあり得ないと思うのでありますけれども、当局が静岡鉄道管理局の事件を不当労働行為と認めて陳謝するということになったということで、一応訴訟には持ち込まない、こういうふうになったと思います。しかしながら、これで労使の紛争が解決したとは思えないわけです。

 私は根本の解決法、これをやはり考えなければいけないんではないかと思うのです。

 このような事件を生み出したマル生運動そのもの、これをやめなければ根本的解決にはならないと私は思うのですけれども、この点総裁はマル生運動そのものを今後もお続けになるという御意思があるようにも伺っておりますけれども、その考え方は現在でも変わりがないのかどうか、この点をひとつ最初に伺いたいわけです。

 

○磯崎説明員 最近の生産性運動その他に関連いたしましていろいろ御心配をかけたこと、たいへん申しわけなく思っております。

 さて、去る八日に公労委からその問題について命令が発せられまして、それに対していろいろ考え方があったわけでございます。八日の時点にはいろいろな原因で、ほとんど私があの命令を読み、あるいは検討する時間的余裕が全くなく新聞記者会見をいたしましたので、あの八日における問題はともかくといたしまして、その後九日、十日といろいろ考えました結果、一昨日のような発表になったわけであります。その意味で、どうしてそう変わったかということについての私どもの考え方を率直に述べさせていただきます。
 いまや国鉄はちょうど百年、きょうがいみじくも九十九年目の最後の日に当たるわけでございます。

まあ前途に、けさの新聞に出ておりますように、新幹線の建設、これもおかげさまで、東北、上越の私どもの工事計画がきまりまして、いよいよ昨日大臣に工事計画をお出しするというふうに、前途に輝やかしい未来を見出しながらも、実際の現実は、いま松本先生がおっしゃいましたように、財政問題を含めまして非常に、有史以来の難局に直面していると私考えます。

私は責任者といたしまして、従来とも微力を尽くしてまいりましたけれども、昨今の状況と申しますのは、この財政状態が全然よくなる見込みがない。

あるいは新聞等におきます世論、それは何も新聞が悪口を書くという意味の世論でなしに、全般的な国鉄に対する考え方、国民の感じ、そういった状況にかんがみまして、ここであらためて、原点に立ち返るということばがございますが、そういう気持ちでもって――原点とは何かと申しますと、国鉄法並びに公労法の第一条に両方書いてございますけれども、企業を健全に発展させて、そして公共の福祉の増進と擁護をはかる、公共の福祉を守るんだということが両方の法律の第一条に明白に書いてございます。

これを原点といたしまして、その原点に立ち返りまして、結局、要は国民あるいは国会の皆さま方の御声援、御支援を得るのでありますけれども、そのものとはやはり四十数万の職員の各自の、めいめいの信念と自覚の喚起以外にはない。そしてそれをもとにしまして国鉄の再建をはかるという決意を私は新たにいたした次第でございます。こういう広い立場に立ちまして、すなわち公労委の命令が一件一件どうだこうだということではなくて、広い立場、高い立場に立ちまして、私は過般の命令を受諾し、かつ実行することにしたわけでございます。

これまで生産性運動というものはきわめて純粋なものでございまして、この純粋な生産性運動が、いわゆる過般認定されましたような不当労働行為によりまして歪曲して理解されたような事例があったことは非常に遺憾であります。

と申しますことは、逆に全く不当労働行為と関係ない職員の自覚、信念に基づいた生産性運動がたくさん起きております。そういうものが不当労働行為によって歪曲されて、生産性運動全体が不当労働行為であるかのごとき取り扱いを受けることは私はたいへん遺憾でございます。

まして生産性運動というものに名をかりまして不当労働行為を行なうということは許されないことである、これは当然なことであると思います。

本来国鉄におきます生産性運動は、御承知のとおり組合が三つ、並びに組合に加入していない職員も相当ございます。

そういった者の何と申しますか共同の意識をもとにしなければならないというふうに考えますが、共同の意識と申しますのは結局国鉄職員としての意識というものに帰着するのではないかというふうに思います。

したがって国鉄職員としては当然国民への誠意と国鉄への愛情を持たなければならない。これは何人も疑わないところだと思いますが、その二つのものを基調とするものであって、それはあくまでも、先ほど申しましたように職員各自の信念と自覚によってのみ発展させなければならない。強権を発動したり力でもってやるというふうなことではなしに、職員自身の信念と自覚によらなければならないというふうに思います。

しかしながら四十数万という非常に大きな世帯でございますし、したがって動き出すには若干の日にちが要ると思いますが、私は私自身の責任におきまして全力をあげて労使双方の不信を払拭してまいりたいというふうな気持ちでございます。
 昨日もすでに組合の幹部と会いましていろいろな話をし始めたところでございますが、今後具体的にどうするかの問題は一応別といたしましても、十分職員全体の意向がつかめるような立場でもってこの問題に取り組んでまいりたいというのが私の気持ちでございます。

 マル生運動は必要との考えを堅持する磯崎総裁

この質問は、マル生運動は遺憾であったと陳謝したものの、国鉄にはやはりマル生運動は必要だといった発言が新聞に載ったことにより、質問を受けたと思われますが、この後に続く答弁では、総裁としてもマル生運動に対して陳謝はしたものの、マル生の問題以上に重要なことは、「国鉄には主要な組合が3つあること、そして実査に は組合に所属しない職員もあり、そうした人々の為にもマル生運動は必要といった答弁」をされるのですが、これに対して国鉄の赤字問題を引き合いに出されて、マル生運動の 中止を迫られているようです。また、その後の質問では、鉄建公団による地方鉄道の建設問題など、国鉄だけの責任にするのは酷な問題なども出てきています。
この辺は、

第66回国会 衆議院 運輸委員会日本国有鉄道に関する小委員会 第3号 昭和46年10月13日

に全文アップしましたので合わせてご覧ください。

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*1

問題なども含めて政府も気づいていたと思うのですがその辺の抜本的な問題への踏み込みはできなかったようです。

特にこの辺りに関しては、佐藤内閣が沖縄問題の解決のために野党の賛成を得たいのでという圧力があったといった記事が出てきます。

しかし、これはいわば保身のための作り話であったと後に磯崎氏本人が語っており、当時の国鉄の背景を考えれば、副総裁陰謀説は事実かもしれません。
この辺につきましても、もう少し検証を重ねていきたいと思いますが、結果的に総裁の陳謝以降国鉄における生産性運動は中止に追い込まれてしまい、国鉄の現場は大混乱に陥ることになりました。

特に助役を中心とする現場管理者は、下位職代行が日常化することとなりました。
ひどい職場では、トイレ清掃までもが助役の仕事とされ本来の業務ができないといった弊害も生じたと言われています。

本来は、下位職代行というのはマネジメントの用語のようで、本来は上位に職制のあるものが下位の仕事を代行することであり本来は奨励されるものではない。
下位の仕事をすることで、全体が見えなくなり現場に混乱をきたすからです。
国鉄の場合、マル生運動の反動で今度は組合管理に陥ってしまった職場でそうした混乱が生じたようです。
この辺は、多々反論もあるかと思いますので皆様のご意見、ご批判をいただきたいと思います。

 

以下挫折した国鉄の生産性運動――マル生(大野光基著 国鉄を売った官僚たち から引用させていただきます。

 山田明吉はいまでも会う人毎に、
 「沖縄返還問題で野党の協力を得たいから、マル生運動を止めてくれと政府から頼まれた」
 と言っているという。このことは当時新聞にも、
 「沖縄国会対策に苦慮する政府・自民党のよけいなトラブルを招きたくないという意向が国鉄に強く働き」(昭和四十六年十月二十三日付『毎日新聞』夕刊)
 と書かせている。
 また、国労の一九七二年度(昭和四十七年度)の運動方針の中には、
 「十月十一日、急に総裁が頭を下げたことについて、ある新聞記者の伝えるところでは、この間に自民党の佐藤直系の某氏から磯崎総裁にじかに電話があり、ある種の示唆があったということです」
 と、極めて最もらしく書かれたくだりがある。
 しかし、長い間、この点について沈黙を守っていた磯崎叡が、最近、ある雑誌に次のような釈明を行ったのは、極めて注目にあたいする。
「私がマル生運動を止めたのは、当時の佐藤総理から
沖縄返還問題で野党の協力を得たいから、マル生運動を止めてくれんか』
と言われたからだという根強い噂がありますが、それは全く根も葉もない噂でして、決して事実ではないということです。
 故佐藤総理の名誉のためにも、ここで誤解を解いておきたいと思います」(『ビッグ・エー』昭和五十六年六月号より)
 事の真相は、副総裁・山田明吉が、自分の反逆行為が露見したときのために仕組んだ作り話であったことは、もはや隠しようがないのである。
 生産性運動で傷つき倒れた多くの管理者や良識職員の恨みを佐藤総理に押しつけて、自分だけ逃げようという犬畜生にも劣る卑劣さに対し、私はただただ怒りに震えるばかりである。
 十一月十六日には全国鉄生産性大会の中止が決定された。
 私にはどうしてよいか全く分からなかった。
 まるで真っ暗なトンネルの中に入ってしまったかのように感じた。
 せめて死んでお詫びしようと、それからは自殺を真剣に考える毎日がつづいた。

 

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国鉄時代助役帽

 

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国鉄があった時代 JNR-era

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*1:鉄道建設公団のAB線 鉄道建設公団が決めた区分で、地方開発線(A線)、地方幹線(B線)とするもので、それ以外に主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)、海峡連絡線(青函トンネルE線)、整備新幹線G線)、民鉄線(P線)の7つに区分されていました。

特に、A・B線は無償譲渡、運営は国鉄、主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)は国鉄に対して30年年賦で貸付、その後譲渡であり、これも国鉄赤字を増大させる原因となりました。

国鉄労働組合史詳細解説 35

皆様こんにちは、本日も国鉄労働組合史を底本に、お話をさせていただこうと思います。

資料等の性格上引用が多くなりますが了承願います。

国労全電通の見る組織保存の考え方

国鉄財政再建計画の一環で導入した生産性運動は、国労組合員や動労組合員の減少を招き、鉄労組合員を増やすという結果を生みました。

国労とすれば「組合員の減少=組合費の減収・組織力の低下」につながるわけですから何としても阻止する必要がありました。
しかし、そこで思い起こされるのは、同じように総評に所属しながらも組織内分れるも起こさず一枚岩で推移した、全電通(現在のNTT労組)との違いです。
MTT労組も、総評所属でしたが、合理化では当局と対立しつつも、条件闘争をだしながら協力していった電電公社とは、結果的に大きく異なる姿を見せることとなりました。
電電公社は、民営化問題が起こったときには、進んでこれを取り入れたことで組織の分断を割けることに成功し、現状でも実質的な地域電話会社(NTT東日本・西日本)は、(規制会社)ということで実質的な国営会社として、様々な規制を受けており、みなし公務員としての規制をうけるといったことを聞いたことがありますが、それ以外の

と言った会社はNTTというブランド力を背景に力を発揮しており、NTT本体にも多大な貢献をする会社として君臨しています。

グループ会社ですので、引き続き社員はNTT労組の組合員と言うことになります。

 

それに対して、JRは国鉄本社も組合も民営化に最後まで反対したこともあって、結果的には地域分割・完全民営化と言う道を辿ることとなり、その利便性が大きく損なわれていることは説明するまでもないかと思います。

マル生運動の反撃に出る国労

 「マル生」粉砕闘争は、職場を基点とする抵抗=反撃を中心とした組織防衛的性格の強い闘争であったが、同時に、闘いを多面的にかつ総合的に展開すること を必要とした。動労との共闘、総評や全交運の全面的支援を受けつつ、マスコミ対策強化、「マル生」調査などもその一環であった。なかでも、裁判・公労委闘 争は、ILO闘争とともに、「マル生が権利に対する全面的な攻撃である」事を明らかにするために最も重視され、成果を期待する闘争であった。

国労の取った方策は、動労との協調は言うまでもなく、マスコミ対策強化、対策なども行われたほか、闘いを多面的にかつ総合的に展開すること を必要とした。とありますように、労働組合幹部を通じて管理局長への工作なども行なわれたようです。

少し長いですが、(大野光基著 国鉄を売った官僚たち) から引用させていただきますと、

生産性運動にはっきり反旗をひるがえす幹部がでてくるのは、五月二十日のスト前後からである。
 その一人が東京南鉄道管理局長の原田種達であった。東京南局というのは、富塚三夫の出身母体である国労東京地方本部を擁する管理局であった。このため原田と富塚とは当然接触する機会も多かったと思われる。
 前述したように、第一回鉄道管理局長生産性研修は五月二十四日から行われており、第二回は六月八日から行われた。
 ところがこの研修に出席しない管理局長が四~五人いた。その一人が原田種達だった。
 私は管理局長室へ行って、「なぜ局長研修に参加しないのか」と、原田に間いた。
 その時、彼は、「あんな神がかりのようなもの……」と言いかけたので、
 私は怒って、「どこが神がかりか」と聞き返したら、
 「すまん、いまの発言は取り消す」と言って謝ったが、この時すでに彼は生産性運動について、国労や一部社会党代議士と同じような認識に立っていたのである。
 東京南局総務部長の川野政史も、局長と同様に生産性運動を忌避した一人であった。
 富塚との結びつきは、局長の原田よりも川野の方が濃厚だった。
 なぜ生産性運動に不熟心なのか? と彼に問いただしたことがある。彼はその理由をこう説明した。
 「合理化とか、業務上の指示をビシビシやって行けばよい。あの組合は良いとか悪いとか言う立要はない」
 そう言ったうえで川野は、「東京駅でネームプレートを職員がつけるように指示した」という。
 そこで私は、
 「ネームプレートをつけろと命令するよりも、自ら進んでネームプレートをつけるような土壌か東京駅につくることを考えるべきではないのか」
 とやり返すと、川野は理解に苦しむといわんばかりに、ただキョトンとするだけだった。

挫折した国鉄の生産性運動――マル生
(大野光基著 国鉄を売った官僚たち) から引用

 

とうことで、国労幹部による説得工作?が功を奏してきた時期と言えるかもしれません。

仮処分申請による判決が国鉄当局を追い詰める

国労は全国の裁判所に仮処分申請を出すなどして対抗、とりわけ、9月14日に、札幌地裁から出た、札幌・苗穂工場に対する仮処分につきましては、その中身が不当労働行為を行なってはならないということであったことから、当局の活動が組合員を故意に移籍させるための行為であると認定されたことは国鉄当局にとっては痛手でした。

しかし、仮処分申請がでた、苗穂工場では、「仮処分決定後において、あらためてそういう不当労働行為はしてはならないという趣旨の徹 底をされたということを下部の職場長等は聞いておらぬと言っておるのであります。」

と言うように、仮処分決定に関する内容が伝達されていないということで大きな問題として国会の質問の場に挙げられています。

札幌・苗穂工場事件に対する札幌地裁判決であった。同地裁は、当局に「脱退工作の禁止」を命じた。組合側は意気上がり。当局には打撃となった。

以下は、長いですが、衆議院会議録情報 第066回国会 社会労働委員会 第6号 昭和四十六年十月十一日(月曜日)の記事から引用させていただきます。

○真鍋説明員 九月十四日の札幌地裁で出しました仮処分につきましては、その中身が不当労働行為を行なってはならないという仮処分でござい ます。これにつきましては、当然のこととしまして私どもは当然服することでございますが、ただ事実関係につきましては争ってきたところでございまして、最 終的にこれをどのように考えるかということは現在検討中でございます。
○田邊委員 そういう返答があるかと思っておったのです。この仮処分の決定というのは、いわゆる不当労働行為をしてはならないという主文だ けで成り立っておるのではありません。その前文において、この申請の趣旨、申請の事由を相当と認める上に立って不当労働行為はしてはならないという、こう いう主文が成り立っておることは事実でありまして、主文とその事由とを切り離して考えることは当然できないのであります。したがって、この仮処分の決定に ついては、国鉄当局は当然の成り行きとしてこれに服する気持ちはありますか。
○真鍋説明員 これにつきましては現在検討中でございます。
○田邊委員 そういうあなたの態度がどのくらい国鉄を誤らしめてきたか。公労委の決定についても、当初は総裁にしても真鍋理事にいたしまし ても、きわめて高姿勢、きわめて挑戦的な言動を吐いておったけれども、いわば政治的な情勢、国会におけるところの追及等をにらんで、今朝服することに態度 を決定された。あなた方はこの中身については争うというけれども、裁判所は、いわば抽象的に不当労働行為をしてはならぬぞという、こういう訓示をしたので はないのですよ。相当な理由があって申請をした。その趣旨を相当と認めて、不当労働行為をしてはならぬというこういう緊急的な短時間におけるところの決定 をしたことはあなたも御承知のとおりであります。とすれば、この仮処分の決定に対して、公労委の命令と同じ第三者の公正な判断という立場に立てば、早急の 機会にこれに服する態度を表明すべきであると私は考えておるのですが、そういった態度をおとりになる用意はありますか。
○真鍋説明員 仮処分に至ります経緯につきましては十分承知しておるわけでございますけれども、私どもの主張してまいりました事実と、仮処 分で事実関係につきましてどのような法律的な判断になるかということを私どもは慎重に検討しておるわけでございます。その結果、これにつきまして服する か、あるいはさらに争うかということをきめたいということは、事実関係において私どもは考えておるところでございます。
○田邊委員 しかし、仮処分の決定は現在生きておる。あなたのほうであらためて争いを起こさない限りにおいて仮処分の決定は生きておる。し たがって、この仮処分の決定を尊重して下部に対して不当労働行為はしてはならないという措置をすることは、当然国鉄の任務である。そういう措置をしました か。
○真鍋説明員 繰り返しになりますけれども、仮処分の中では、事実関係につきまして争ってまいりました事実につきましての理由が明らかにさ れていないということでございますので、私どもは、その事実関係につきまして私どもが主張してまいりました点と、組合が主張してまいりました点との違い、 あるいは法律的にどういうふうにこれを今後考えるべきかというような点につきまして検討しておるというわけでございます。
○田邊委員 委員長から――実は答弁を簡潔に、しかも私の質問に対して的を射た答弁をしてもらいたい。仮処分の決定は現在生きておる。した がって、あなた方は当然この決定に対して下部に、仮処分の決定に基づいて不当労働行為をしてはならないぞという、そういう趣旨の徹底をすべき義務がある。 それをしたかどうか、こういう質問であります。
○真鍋説明員 この点につきましては、北海道総局を通じまして、そういう趣旨の徹底をしております。
○田邊委員 下部の管理者はそれを聞いておらない。仮処分決定後において、あらためてそういう不当労働行為はしてはならないという趣旨の徹 底をされたということを下部の職場長等は聞いておらぬと言っておるのであります。いつ具体的にどういう方法でもってこの趣旨の徹底をいたしましたか。あら ためてひとつ答弁してもらいたい。いま答弁できなければ委員長を通じて委員会に提出してもらいたい。
○真鍋説明員 総務部長会議の席でも申しましたし、その前に電話で連絡しておりましたけれども、具体的に何日にどういうことということは、追って具体的に資料として提出いたします。

衆議院会議録情報 第066回国会 社会労働委員会 第6号

から引用

さらに、同じ委員会では更に国鉄当局にとっては不利な話が出てきました。

それは、水戸局の某課長が、「知恵をしぼった不当労働行為をやっていくのだ」という発言をして、この発言をテープにまでとられたという話でした。

今でしたら、簡単にボイスレコーダーで録音できる時代ですがその時はどのようにしてそのような発言を記録したのか気になるところですし、知恵を絞った不当労働行為・・・いわば自発的に組合を変わるような発言を職員からさせるような内容をちらつかせたのでしょうか。
組合を変わった職員は次の昇進試験で配慮することもあるかもね・・。といった断定的な話ではなく仮説的は話をすると言ったところでしょう。

仮に、職権で組合の脱退等を強要すると言った行為は、「労働者が労働組合に加入せず、又は労働組合から脱退することを雇用条件とすること(いわゆる黄犬契約)」として不当労働行為になります。

しかし、こうした話が実際に国会まで上がってくるとなると国鉄総裁としては中止せざるを得なくなります。
当時はすでに、自力で赤字を解消するための累積剰余金もなく、借金を返すために借金をする自転車操業状態になっていましたので、国の意向に反してまでマル生運動を進めることは困難になっていたと言えましょう。

○島本委員 私奇怪に思いますのは、この答弁によってじゃないのであります。以前からこの問題で、総裁は十分知っておられるとおり、この数 日の間にも不可解千万なことが国鉄当局によって行なわれております。それは一日、六日、これは真鍋常務理事から不当労働行為をしないようにという異例の指 示があったかのように承っておる。八日には公労委の命令書が出た。そして磯崎総裁も、国鉄に不当労働行為はない、こういうふうに大みえを切った。私はそう 受け取りました。そうであればよろしいという願望を込めてそう受け取った。ところが同じ八日に、早川武士ですか、水戸の鉄道管理局の能力開発課長という人 が、知恵をしぼった不当労働行為をやっていくのだ、こういうようなことをまた出され、こういうことがテープにまでとられてある。これは隠れもない事実であ る。そうすると、不当労働行為をしないと総裁は言い、それを受けて下部の指導者は、能力開発課長なる者が、知恵をしぼった不当労働行為をやっていくのだ。 一体、知恵をしぼった不当労働行為と、不当労働行為をしてはいけないということと、これはどういうふうな関連を持つのか。また、総裁が、これはやっていな い、今後もやっていかない、違うんだ、こういうふうに言っていながら、逆に、それではだめなんだ、法に引っかからないように知恵をしぼった不当労働行為を やっていけばいいんだ、こういうようなことは管理一体の原則にも反するし、これは今後、総裁がいかに抗弁しようとも、抜き差しならないような不当労働行為 につながる元凶です。これに対して総裁、どうお思いですか。
○磯崎説明員 去る八日の水戸におきます問題につきましては、私は新聞紙上をもって知り、また直接水戸管理局のほうからも、連絡をとって聞 いております。これはいろいろ用語の問題その他は別といたしまして、私は総裁としての見地から申し上げます。こまかい問題でなくて申し上げますと、その能 力開発課長の発言は非常に不穏当である、私は衷心から遺憾に思っております。
○島本委員 この問題については衷心から遺憾に思っておる。これは総裁の意に反した行動をした者である。そういうような者に対しては処分を考えてしかるべきだ、こういうのが私は当然だと思うのです。
 この問題については後ほど資料に基づいてゆっくりと行なうことにして、私は、そういうふうなことが随所に行なわれておるということが遺憾なんでありま す。すなわち、不当労働行為ではない、そういうようなことを平気で示唆していく。総裁はいま、残念だと言った。しかし、こういうような残念なことが方々で 行なわれておる。これに対して、管理一体の原則が正しければ、総裁以下全部責任を負うべきだ。しかしながら、総裁の意に反してこういうようなことを平気で やっているというならば、今後これに対して厳重な態度をもって臨まなければならない。その例証を一つあげます。
 これは山形ですが、昭和四十六年の四月二十四日に総務部長のほうから各現場局長に、「正常な労使慣行の確立について」という指示がちゃんと流されていま す。そして五月六日にも同様に、「労働組合に対する管理者の心構えについて」という通達を流しております。そのあとで秋田鉄道管理局総務部労働課長と国鉄 労働組合秋田地方本部組織部長の間に議事録確認まで行なわれ、そういうような事態を起こさないようにはっきり署名、捺印までしております。そして五月八日 には、「労使慣行正常化に伴う覚書」、これも秋田鉄道管理局の総務部長と国鉄労働組合秋田地方本部書記長との間にはっきり結ばれてあるのです。少なくとも この労働協約また確認事項、こういうようなことについては私は法律に準ずるものであり、かってにこういうようなものを変更させることはいけない、こう思っ ているのであります。しかし労働大臣、今度は労働大臣にお伺いしたいのですが、この労働協約またいろいろな慣行、確認、こういうような労使双方で責任ある 立場を代表して署名、捺印したものは法律に準ずるものであって、これをかってに変更する行為は許されないものである、こういうふうに思いますが、労働省の 大方の所見をまず承っておきたいのであります。

衆議院会議録情報 第066回国会 社会労働委員会 第6号

国鉄は、マル生運動を中止せざるを得なくなり、現場の管理者は、その多くが梯子を外される結果となりました。
梯子を外されたことにより現場では無力感が漂い物言わぬ管理者が増えていくことになりました。
それが、その後の職場管理(現場協議制や、同一単一形式の大量増備、メンテナンスフリーとするための冗長化等が行われ、国鉄は時代の流れの中にぽっかりと置き去りにされたようになっていきました。

国労は、国鉄の「マル生」運動は、国鉄の「再建合理化」計画を背景にもった”国労つぶし” の運動であった。」と総括していますが、結果的に失ったものが大きかったのは国労であり、10年後には今度はマスコミからヤミ手当などの問題を指摘され、追われる立場の側になるのですがそれはもう少し先の話です。

 

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1963年(昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造されたが、これも国鉄時代のマル生運動余波による名残と言えそうです。
本来であれば、もっと早い時期に私鉄のようにチョッパ車等が製造されても不思議ではなかったのですが。

71年11月、「マル生全国大会」の中止で、「マル生」運動は破綻した。国鉄の「マル生」運動は、国鉄の「再建合理化」計画を背景にもった”国労つぶし” の運動であった。近代的な「理論」や巧みな言葉で粉飾しようとも、繰り広げられたのは近代的な「理論」や巧みな言葉で粉飾しようとも、繰り広げられたのは 近代的な汚い不当労働行為以外の何物でもなかった。「人間性の回復」が強調された中で、人間を人間として扱わぬ差別・選別が横行し、このうえない非人間的 な事態(自殺6人、発狂2人)が起こった。そしてこの間に、4万数千人を越える多くの仲間が国労動労から脱落していった。

*********************************以後は、国労の資料になります。*****************************

 

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第6節 国鉄マル生運動の展開と国鉄労働組合のマル生
   粉砕闘争

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 3 国鉄労働組合の「マル生」粉砕闘争
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├○ 裁判・公労委闘争、「マル生」調査団│
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 「マル生」粉砕闘争は、職場を基点とする抵抗=反撃を中心とした組織防衛的性格の強い闘争であったが、同時に、闘いを多面的にかつ総合的に展開することを必要とした。動労との共闘、総評や全交運の全面的支援を受けつつ、マスコミ対策強化、「マル生」調査などもその一環であった。なかでも、裁判・公労委闘争は、ILO闘争とともに、「マル生が権利に対する全面的な攻撃である」事を明らかにするために最も重視され、成果を期待する闘争であった。
 71年9月頃までに、裁判所に多くの仮処分申請が行われ、公労委には国労39件、動労35件の不当労働行為が持ち込まれた。そのうち、最も早く決定が出されたのは、札幌・苗穂工場事件に対する札幌地裁判決であった。同地裁は、当局に「脱退工作の禁止」を命じた。組合側は意気上がり。当局には打撃となった。その後、「マル生」運動の不当労働行為性を明らかにし、組合側の反撃の決め手となったのは、71年10月5日の静岡鉄道管理局の(一)(二)併合事件に対する公労委「命令」であった。公労委は不当労働行為を認定し、関係者に陳謝を命じた。
 この時期、社・共・学者・弁護士等による「マル生」調査団による実態調査も有力な事実を数多く摘発した。それらは国会闘争や地方議会闘争、公労委の審理や裁判闘争における有力な資料となり、マスコミ関係者の強い関心を呼んだ。マスコミは概して組合側に好意的であり、「マル生」については行き過ぎを指摘した。公労委命令は大々的の報道され、国民の共鳴を引き出した。

┌───────────┐
├○ マル生闘争の勝利 │
└───────────┘

 公労委命令を契機に局面は、組合側に有利に展開した。だが、国鉄当局はなおも抗戦の構えであった。この時、水戸鉄道管理局の一課長の「生の録音テープ」が暴露され、当局もついに態度を変更した。
 磯崎総裁は、公労委命令を受諾する声明を発表し、71年10月23日、陳謝文を国労本部と静岡地本に提出し、真鍋職員局長の更迭など幹部18名を処分した。11月16日に予定されていた。「マル生」全国大会は中止された。労使間では、「紛争対策委員会の設置」など不当労働行為の事後処理と再発防止の規制措置へが協議された。
 71年11月、「マル生全国大会」の中止で、「マル生」運動は破綻した。国鉄の「マル生」運動は、国鉄の「再建合理化」計画を背景にもった”国労つぶし”の運動であった。近代的な「理論」や巧みな言葉で粉飾しようとも、繰り広げられたのは近代的な「理論」や巧みな言葉で粉飾しようとも、繰り広げられたのは近代的な汚い不当労働行為以外の何物でもなかった。「人間性の回復」が強調された中で、人間を人間として扱わぬ差別・選別が横行し、このうえない非人間的な事態(自殺6人、発狂2人)が起こった。そしてこの間に、4万数千人を越える多くの仲間が国労動労から脱落していった。しかし、国労動労と組合員の命がけの反撃、共闘体制の広がり、及びそれを支持したマスコミと広範な世論の批判の前についに国鉄当局は磯崎総裁の陳謝と「マル生」運動中止に追い込まれたのであった。そして、「マル生」運動=「国鉄財政再建10ヵ年計画」は破綻した。
 72年7月の国労第32回大会では、「中間総括」を行い、この間の闘いの弱点についても自己批判した。どうじに、「組織奪還を達成してこそ完全勝利」との方針のもと、闘いのツメに向かった。実際、この「マル生」運動をつうじ、鉄労は10万人超え(72年5月現在)動労は5万人を割り、国労は72年5月現在で21万8000人で約3万人余りを失っていた。だが、国労はこの後、増勢に転じ、75年6月の水戸大会では、ほぼ「マル生」以前の勢力を回復し、78年6月には25万2000人余りに増加した。鉄労は72年5月以降、数を減らし、78年6月には5万5千人弱に減少した。「マル生」粉砕闘争の勝利は、国労運動その後の高揚の大きな契機となった。

国鉄労働組合史詳細解説 34-2

長らく間が開いてしまいました。
申し訳ございません、マル生運動は幅が広すぎて2回に分けようと思ったのですが逆にもう少し詳しく検証してから別の機会にアップッせていただこうと思いますので、今回は簡単に流させていただきます。

国鉄における「マル生運動」とは具体的にどのようなものであったのかを私の記憶を辿りながら書いてみたいと思います。

国鉄がマル生運動を導入しようとした昭和45年から昭和46年と言うのはどのような時代だったのでしょうか。

国鉄があった時代から少し引用してみようと思います。

寝台特急あけぼの運転開始 7/1

10月改正で設定される寝台特急「あけぼの」(上野~秋田)の車両を早期落成の上臨時寝台特急として運転、この措置により、同区間を走行する急行「おが」が運転休止となる。このような例は最初であり最後となった。
 また、今回増備された20系が最後であった。特に電源者は100番代を冠せられ、電源車の電源供給区分の切り替えや電源エンジンの起動、停止なども機関車側で行えるようにし、専門技術員の乗務を省略した。

駅レンタカー開店 7/1

東北地区に「駅レンタカーみちのく」・長野地区に「駅レンタカー信州」が開業、やがて全国に駅レンタカー網が張り巡らされていくことに。

大蔵省、国鉄再建策として赤字ローカル線大幅整理、財源に自動車新税充当など、財政制度審に諮問 7/23

国鉄、通勤形に冷房試作車導入 7/31

山手線に103系冷房試作車を導入

新快速電車 京都~西明石間に運転開始 10/1

朝10:00から17:00まで1時間ヘッドで6往復。
網干区所属の、113系7連を使用、所要80分で、大阪・三宮・明石のみ停車。

室蘭本線【旅客駅→貨物駅】陣屋町 8/1
静岡鉄道駿遠線 新藤枝~大井川 間 6.3kmを廃止。全線廃止 8/1

DISCOVER JAPANキャンペーン開始、10/14
YouTube当時のCMが見れます。


1970 国鉄 DISCOVER JAPAN - YouTube

 

などと言った内容でしょうか。

よろしければこちらもご覧ください。
昭和45年国鉄があった時代前半 昭和45年国鉄があった時代後半
昭和46年国鉄があった時代前半 昭和46年国鉄があった時代後半
昭和47年国鉄があった時代前半 昭和47年国鉄があった時代後半

国鉄では万国博覧会以降、国鉄が整備した輸送力を活かすとともに、Discover Japanキャンペーンに見られるように、国鉄に乗ってもらうための増収努力を始めていました。

しかし現場では、接遇マナーについて学ぶ機会もなく、駅では「ありがとう」が言えない職員がいるとと言うありさまで、お役所で窓口の対応が悪い部門では、国鉄は何時も最下位の指定席を保っていました。
当時で一番窓口が親切と評価されたのが確か税務署だったかと思います。

そんなおり、国鉄で始まった生産性運動は、「俺がやらねば誰がやる」と言うスローガンの下、積極的な増収運動や自己啓発運動が行われたようです。
また、ブレーンストーミング形式での検討なども行われたようです。

さすがに、この当時は私も小学生なので具体的にどのような指導が行われたのかは知りませんが、当時のそうした回想録などを読んだ記憶の範囲ではそんな内容であったようです。

複数の職員が学園に集められて訓練は行われるそうで、期間はちょっと記憶していませんが最終日にはパーティが行われ、照明を消した中で一人一人がろうそくを持って入場して、幻想的な光の中で「国鉄の再建を誓う」と言ったいささかカルトめいたことが行われたという記事が動労の資料で読んだ記憶があります。
まぁ、動労が書いた単行本ですからかなり批判めいた意味合いが強かったと思いますが・・・(^-^;

実際にそうした研修を終えた職員は、自らが変わることで国鉄は変われると真剣に思っていたようで積極的な増収活動等に邁進します。
国労の組合員や動労の組合員も居るわけで彼らは国労動労を脱退して鉄労に加入することとなります。
このことは国労が、「マル生は不当労働行為を行っている」とマスコミにキャンペーンを打たせざるを得ないほど深刻なものでもありました。

明日以降は、再び国労の記録を底本にアップッさせていただきます。


実際に、こうした運動に対して国労はマスコミを上手く活用することで、反マル生運動を展開することに成功します。
国鉄部内誌の国鉄線の昭和46年11月号世論アラカルトというタイトルで、当時の新聞記事の内容がでていました。

記事は、昭和46(1971)年9月の新聞記事について書かれたものであり、東京新聞が、「国労、勤労を敵視し、鉄労を保護するような印象を与えるならば、生産性向上の目的はとうてい達成できまい。」と国労動労擁護の論調である他、読売新聞も当局側の「安易で一方的な労務政策を進めてきたことに対する不満の累積があることは否定出きない」とこれまた批判的な内容となっています。
また10月1日の朝日新聞も、「生産性運動が「良識者」を育成する運動にすりかえられていることである。元来、所属する労働組合を基準にして「いい職員」「悪い職員」と色分けするやり方は本質的に誤りだと思う。」と一部管理者が鉄労組合員を増やすことが労務管理だと誤った認識をしたことに対する批判をしています。

 

以下、国鉄線昭和46年11月号から引用

国鉄におけるいわゆるマル生運動とこれにからむ不当労働行為等の問題が、連日のようにとりあげられている。まず、二十四日、東京は社説で、「火の車の経営に苦悩する国鉄当局が、その改善のための一方法として生産性を向上させようとする事情は理解にかたくない。しかし、問題はその進め方である。国労、勤労を闘争至上主義として敵視し、一方、鉄労を協力的として保護するような印象を与えるならば、国労動労の反発を招き、生産性向上の目的はとうてい達成できまい。
・・・・国労、勤労を過激にさせた根因には、公企体労働者の労働基本権が制限されていること、その制限に当局側が寄りかかって安易で一方的な労務政策を進めてきたことに対する不満の累積があることは否定出来ない・・・」とし、「むろん国労、勤労にしても、その合理化反対闘争、たび重なるストなどには自省すべきであるが、とくに当局側の労務対策の姿勢転換を求めざるを得ない。」と主張している。
*****中略****
朝日も「気にかかることの一つは、生産性運動が「良識者」を育成する運動にすりかえられていることである。元来、所属する労働組合を基準にして「いい職員」「悪い職員」と色分けするやり方は本質的に誤りだと思う。重要なことは全員が誇りある再建にかかわっているという共通の認識を生み出すことではないか。・・・国労も硬直的な姿勢を変えてほしい。険悪な国鉄の労使関係も、原因の大半は双方が全く意思疎通を欠いていることによる。
ストの時だけでなく恒常的な労使協議のルールをこの機会にぜひ確立することを望む
」と結んでいる。

 こうした記事に対して、当局の見解としては、組合による差別をすることなく、まして不当労働行為と認められるような行為をし無いことはもちろんであるが、組合側も闘争至上主義に陥ることなく、冷静にテーブルに着くべきではないのかと結んでいます。

結果的には磯崎総裁が当局側の不備を認める形で収束したことから、組合側としては更に過激な現場による労働運動が進められることになり、現場管理者の苦悩が続くことになりました。

 

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