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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 16

皆様こんばんは、2週間ほど空けてしまいましたので、集中してアップしたいと思います。
当時の国鉄春闘のお話をさせていただく前に、昭和20年代労働災害について述べてみたいと思います。
現在は安全管理が厳しく言われており、時に過剰とも思える安全管理が為されていますが、当時は現在と比べものにならないほど労働災害における死亡事故は多く、組合がこうしたことに敏感にならざるを得ないであろう時代であったということをまず知っていただきたいと思います。

大原社会問題研究所「日本労働年鑑 第27集 1955年版から引用させていただきますと」

> また、労働者一〇〇人以上を使用する事業所における一九五三年中の、労働者一、〇〇〇人について死亡者一人の割合(死亡度数率〇・四二以上に高度の死亡者 を生じている業種を挙げると(カッコ内は年千人率)、林業(一・七)、建物建設業(一・七五)、木造家屋建築事業(一・〇)、鉄筋及鉄骨コンクリート造家 屋建築事業(一・六)、ずい道建設事業(四・二)、水力発電所建設事業(三・七)、電気工事業(三・六)、産業用爆薬製造業(一・三)、植物油脂製造業 (一・〇)、石灰製造業(一・六)、国鉄操作場(一・三)、貸切貨物自動車運送業(一・四)、水運荷役請負業(一・一)で、最も死亡危険性の高いずい道建 設業をはじめ、水力発電所建設事業、電気工事業では、一〇〇〇人の労働者が一年間働くうち、その三人乃至四人は必ず死亡することを示す。

と なっており、国鉄の操車場職場などでは一〇〇〇人が働く職場であれば一人ないしは二人は死亡していたことを示しており、実際に死亡に至らないまでも片足切 断、両足切断といった事故は少なからずどこかで繰り返されていたであろうことは容易に想像できるという時代でもありました。

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昭和26年当時の貨車入換風景(天鉄局のアルバムから)大正時代に使われていた貨車のため、連結器両側に元のバッファーの穴が見えます。

また、当時の写真を見ると現在と異なり、脚絆に地下足袋という軽装でヘルメットもなくそれで走り来る貨車に飛び乗りブレーキを掛けるといった危険な作業を行っていたわけです。

 

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厚生労働省白書から引用

国労の資料の中で、

国労中央委員会は、「官公労・民間労組の統一闘争の中核」となる方針を採択した。その春闘目標には、「生産性向上反対、経営合理化に反対」が含まれていた。

この辺は、組合員の確保という観点からは、合理化は反対とならざるを得ないと思いますが、当時の国鉄では、鉄道省時代は、建設改良に属する工事経費は、原則として、財政資金で賄われていましたが、昭和24年の国鉄(公社)発足後は、極力自己資金で賄う建前がとられたことから、昭和28年に至っては、工事経費全体の74%にあたる306億円が運輸収入から充てられることとなりこれらが、後の第1次5カ年計画などに影響を及ぼし、その後の事業計画などにも影響を及ぼしていったことは明らかでありましょう。

ただ、闇雲に経営合理化に反対と言っても、こうした現状があった以上積極的に合理化に協力していたならば、一時期膨れ上がった国鉄時代の定員は昭和14年の22万8000人と比べると昭和28年度は44万4000人と倍となっており、昭和24年の国鉄発足時の63万人から比べれば大いに合理化されたとはいえ老朽資産の取替えと同時に高度な合理化を図っていたならば、列車キロ当りでは、戦前に比し約五割、車輌キロ当りでは約三割多いという事実を考えても、積極的に合理化を勧めるべきであったと個人的には思ってしまいます。(この辺りは、私の私的な意見ですので異論はもちろんあると思います。)

以下は、国労の資料になります。
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 1 総評の中軸組合としての国鉄労働組合のたたかい
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├○ 春闘の展開と国労の参加     │
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 賃上げ競争は、朝鮮戦争後の不況期はきわめて困難であり、とくに54年は、総評の目標とした賃金ストップ政権打破は挫折した。この頃、総評では地域ぐるみ、国民総ぐるみで政治の転換を図り、もって低賃金を打破しようとする路線と、企業別組合の弱点を克服し、産業別統一闘争と統一スケジュールによって賃上げを行うとする路線の対立があった。前者は総評の高野実務局長に代表され、後者は後総評議長になった太田薫合化労連委員長に代表された。
 55年、民間単産による春季賃上げ共闘会議(5単産、のち8単産)が結成され、春闘が開始された。翌年からは総評に中立労連が加わり、春季賃上げ合同闘争本部(のち春闘共闘委員会)が設置され、その後春闘が定着していった。
 国労は公労協とともに、56年春闘から参加した。これは54年の経験から民間の賃上げが停滞すれば公企体なども同様であり、その突破には民間と官公部門との共同闘争が不可欠だと考えられたからである、56年2月の国労中央委員会は、「官公労・民間労組の統一闘争の中核」となる方針を採択した。その春闘目標には、「生産性向上反対、経営合理化に反対」が含まれていた。