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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 49

 

皆様こんにちは、気が付けば2週間以上放置状態になってしまいました、申し訳ありません。
今回は、「政策推進労組会議」について少し私なりに調べたことを述べてみたいと思います。

昭和50年に景気は落ち込んだものの、昭和51年には景気は持ち直しを見せ始めていきました。

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「政策推進労組会議」の背景について考える

政策推進会議が出来た背景には、電機労連とJC(全日本金属産業労働組合・現JCM)の統一組合運動にあったと言われています。
その辺りを、電機連合のサイトから少し長いですが、引用させていただこうと思います。

1976年(50年のあゆみ):電機連合

前年の75春闘に続いて攻勢を強めつつある政府・財界に対して、労働側はいかなる闘争体制の構築を図るか、とりわけ電機労連の動向が注目された。と いうのは、電機労連は75春闘で、JCの集中決戦・スクラムトライへの参加を見送り、春闘共闘会議の中核として5月路線・無期限の重点部門ストで挑んだも のの、結果は10%の壁を破れず、9%プラス解決金という結果に終わったという経緯があった。

したがって、76春闘に電機はどのような春闘方針を決めるのか、1976年2月、千葉県館山市で開かれた電機労連の第60回中央委員会が注目 された。この冒頭では、竪山利文委員長が「76春闘は長期・強靭な闘争体制で…」とあいさつして、従来路線かと思わせたが、論議が進み、各大手組合の意見 表明の最後に発言した日立の鮎沢保親委員長が「もう去年のような闘いは組合員に申し訳ない。金属労協で交渉重視を」と訴え、総括答弁に立った竪山委員長も 金属労協を重視するとまとめた。電機労連がストライキ春闘から決別して、JC路線に大転換した日であった

全日本金属産業労働組合IMF-JC)略してJC、以下は全て、JCと記述させていただくのですが、JCの戦術が基本的には労使協調路線でした。

無駄な労使対立は行わず徹底的に話し合う労使協調を提唱しました。

労働者はストライキをしない代わりに使用者は「従業員の雇用を守る」「成果配分は、労働者・経営者・消費者で均等に配分するなど、株主優先の欧米型の経営とは大きく異なる「日本型資本主義」といいますか、高度な日本型社会主義とも言える状況がその背景にありました。
電機労連も、重厚長大産業が中心であった1970年代は、電機連合とJCがという二つの組合が春闘相場を決めたものでした。

そんな中、1975年は電機労連はJCとの合流を見送って単独で春闘ストライキを中心とする戦術)にでたが、十分な賃上げ回答額を得られなかった反省から、1976年には電機連合もJCと合流したことで、民間を中心に成果配分型の組合運動が起こってきます。

「政策推進労組会議」はどのように政策実現を目指したのか。

さて、ここで「政策推進労組会議」(政権会議)と呼ばれるものが民間の組合を中心に発達してきた背景について改めて考えてみたいと思います、それまでは組合がその政策実現に頼るのは、社会党【現・社民党】であり民社党民進党の前身である「新進党」に吸収される形で1993年に消滅)でしたが、それでは十分に政策を反映させることは難しく、むしろ政権党である「自民党」の直接言うほうが政策実現をしてもらえる可能性が高かったと言われています。

それが流れとなって、JCは電機労連との合同を積極的に考えていくとしたそうです。

大原社会問題研究所法政大学大原社研 1976年労働戦線統一への新たな抬頭、政策推進労組会議の結成〔日本労働年鑑 第52集 058〕から引用させていただきます。

七六春闘で「JC集中決戦」に電機労連が参加したことなどから急速に流動化の方向をたどった。同年五月の鉄鋼労連春闘総括中央討論集会で宮田委員長 は「共同行動会議は電機労連の参加を得られるなら発展的に改組する」と提唱。一方、電機労連は六月の第二四回定期大会で「民間労組と共通する課題や国民的 課題についての情報交換や共同行動強化のため、主要単産労組組織による共同行動組織の結成に本格的行動を起こす。民間労組共同行動会議については、新規参 加単産による新たな共同行動組織として発足させる」との方針を決定した。

 これを契機に共同行動会議は、同会議の改組および政策課題について検討する一方、電機労連や全機金とも調整をかさねた。共同行動会議の拡大なのか、新しい民間組織の結成なのか、この間の問題はこの点にしぼられた。

 そうしたなかで、76年10月7日には 「政策推進労組会議」(政権会議)が新たに発足し総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったと言われています。

ただ、こうした組合運動の変節に対して、私鉄総連が「総評、春闘共闘、全交運をとび越えての運動はありえない。民間労組共同行動会議は真の革新とはいいがたく警戒が必要だ」とのきびしい見方をしたことなどが指摘できよう。

と言う評価をしているのは注目される部分と言えましょう。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 民間先行の労戦統一の動きと国鉄労働組合
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 戦後労働運動路線の変換は労働組運動の側からすすめられた。
1966年末、全逓宝樹委員長の論文をきっかけに始められた労働戦線再編・統一運動が挫折した後、この運動を推進してきたグループは、76年10月7日 「政策推進労組会議」(政権会議)を発足させた。この会議は、総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったが、その後の労働戦線再編・統一の流れに大きくかかわっていった。すなわち、この政権会議参加組合は、国民春闘共闘会議とは 別に77年春闘から毎年設置された賃闘対策民間労組会議のメンバーとして運動をすすめ、80年春闘地にはこの賃聞会議代表の四単産鉄鋼労連・電機労連・ 電力労連・自動車総連)と総評加盟の民間三単産私鉄総連・全日通・全国金属)によるブリッジ共闘連絡会議が発足し、賃金闘争を媒介に”民間結集”が再浮 上した。
 その間、同盟は78年1月の定期大会で、国際自由労連指向・官公労働運動の民主化推進とともに「当面、民間労組を中心に再編・統一をめざす」方針を決め、翌79年2月には中立労連と新産別が総連合を結成して「民間先行結集」を進める方針を決めた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 48

 

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国鉄改革の直接の引き金となった第2臨調ですが、国鉄という存在自体が最初から中途半端な形でスタートしたことにその問題があったわけで、臨調のお話をする前に少しだけ振り返ってみたいと思います。

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下記サイトから引用しました。

bizacademy.nikkei.co.jp

  1. 国鉄職員の身分が、公務員ではないが、民間企業の社員でもない。(スト権の否認など)
  2. 税制も中途半端な形であり、その整備が遅れたと言われています、その後その煽りもあって昭和30年代地方交付税が不足した時に3公社に対して「市町村納付金」として、地方税法で定める固定資産税の代わりに納付する事が定められ、国鉄の場合、鉄道線路等もその対象となるためその額は巨大なものとなりました。(駅舎等は、固定資産税の対象となっていた)
  3. スト権がないので、本来はストをできないはずですが、スト権をよこせという違法ストライキが行われ、結果的には国民の信頼を失う結果となりました。
  4. 元々、公務員なのか民間企業なのかあいまいなうえ、国からも同様に曖昧な位置づけとされたため結果的に政治に翻弄されることとなりました。

といった具合でしょうか。

行政改革の進展、第二臨調発足

鈴木内閣の目玉であった行政改革は、土光敏夫経団連名誉会長に要請することから始まりました。

就任に際しての条件は、

  • 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
  • 増税によらない財政再建の実現。
  • 地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
  • 3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。

の4箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。

と言われています、また、私生活は非常に質素であったと言われており、「メザシの土光さん」というイメージが定着したと言われています。

臨調の委員については、土 光氏のほか、円城寺次郎氏(日本経済新聞社顧問)、林敬三氏(日本赤十字社社長)、宮崎輝氏(旭化成工業社長)、瀬島龍三氏(伊藤忠商事会長)、辻清明氏 (国際基督教大教授)、谷村裕氏(東京証券取引所理事長)の他に、労働界代表として丸山康雄総評副議長(自治労委員長)、金杉秀信同盟副会長(造船重機 労連委員長)の九氏が選出、専門委員二一人には、労働界から鶴園哲夫元全農林委員長、山田精吾政策推進労組会議事務局長を選ばれました。

 このほか、臨調は、 四月にかけて顧問五人、参与四九人を各界代表として選出、槇枝総評議長、宇佐美同盟会長、竪山中立労連議長の各氏も選ばれましたが、臨調の審議に加 わるとされたこれら委員、専門委員、顧問、参与は、国労が指摘しているように6割を財界・官界の出身者が占め、労働界からはわずか3人の参加にとどまったことが批判の的とされました。

また、非公開、多数決の運営が確認されたとのことです。

労働運動側から見た時、行革はどう映ったか

意外と柔軟だった総評

総評は、第二臨調の発足に対し下記のような方針を決定した。

  1. 国民生活のニーズに直結 した民主的行政改革の取組を強めること
  2. そのために積極的提言や対策を国民の前に示すことをかかげ、「積極的かつ大胆に対応していくことが80年代戦略の観点からも重要」と国民的行革の推進を強調しつつ、転換に応じる意向を明確にするなど臨調の審議方向へ柔軟な姿勢をみせた。

ということで、非常にこの点は重要視すべきことではないかと思います。

特に配置転換問題に関しては、「かつて三井三池鉱山閉鎖時にとった措置 同様、雇用先を明確に打ち出すこと」といっそう具体的かつ柔軟な姿勢を示したとされており、何でも反対ではなくより合理的な判断をしていたと言う点が注目されます。

同盟も異論はなく賛成に

 同盟は、評議会で「行政改革に関する国民運動の展開と第二次臨時行政調査会への対応について」を決め、政策推進労組会議、金属労協、化学エネルギー労協とともに、第二臨 調に呼応して行革推進に協力する方針を明確化。四つの労働団体は「行政改革推進国民運動会議」(略称・行革推進会議)を個人参加の形で発足させるなど積極的な動きを伴っていました。

翌年昭和57年には、国鉄に関しては分割民営化の方針が決定されたと言われています。

臨調の基本方針

大原社会問題研究所の資料から引用させていただきます。

法政大学大原社研 1982年国鉄分割・民営化問題についての臨調「基本答申」の特徴〔日本労働年鑑 第57集 038〕

分割・民営化方針の確認

 臨調の第四部会は八二年初めから分割・民営化で固まったとの報道もあったが、第四部会としては四月一七日に国鉄の分割・民営化の方針を確認し、四 月二〇日には素案をまとめた。五月一七日に電電公社・専売公社の民営化、国鉄の分割・民営化を内容とする部会報告を提出した。第四部会報告の内容は、八二 年七月三〇日の臨調基本答申(第三次答申)にすべて盛りこまれたが、基本答申ではいくつかの手直しがなされた。それは、分割案を具体化し「七ブロック程 度」としたこと、政府側の意向をうけて国鉄再建監理委員会を「行政委員会」(国家行政組織法三条)とせず、単なる「付属機関」(同八条)としたことなどで ある。

この時の案では全国7ブロックとされており、おそらく東北地域が分割されていたものと推測されます。

 

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指摘された、公社制度の理念と現状の問題点

下記のように、臨調では国鉄の現状と問題点が指摘されました。

重要な指摘をされていると思われます。

 「公共性と企業性の調和という理念に基づき設置された」公社は、現状をみると「企業性が発揮されているとはいえず、その結果、果たすべき公共性さ え損なわれがちであり」、公社制度への疑問が生じているとし、制度改革の必要性を説き、つぎのような公社制度の問題点をあげる。第一に、「公社幹部の経営 に対する姿勢について」、国会や政府による外部干渉が経営責任を不明確にし、安易感を生み、労使関係でも当事者能力が不十分なため、賃金を除く「他の勤務 条件で安易な妥協」をする。第二に、労働者の側にも倒産の恐れがない「公社制度の上に安住し、違法な闘争をおこなうなど、公社職員としての自覚、義務感」 に欠けがちである。第三に、「公社に対する国民の過大な期待」が「公社の経営に負担をかけ、効率性を阻害する要因となっている」。以上の問題を解決するた めには、「単なる現行制度の手直しでなく、公社制度そのものの抜本的改革を行い、民営ないしそれに近い経営形態に改める必要がある」という基本的立場を明 確にして国鉄問題の分析に進む。

公社に対する国民の過大な期待・・・昨今で問題になっていますが、ローカル線問題など上げられると思います。この辺の問題はまた別の機会にでも取り組みたいと思います。

以下は、国労の本文になります。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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 ついで81年9月、第2臨調は検討課題ごとに新たな4つの部会を設置し、第1部会「行政のはたすべき役割と重要行政施策のあり方」【部会長・梅本純正武 田薬品副会長】、第2部会「行政組織及び基本的行政制度のあり方」【部会長・山下三井造船会長】、第3部会「国と地方の機能分担及び保護助成・規制監督行 政のあり方」【部会長・亀井正夫住友電工社長、日経連副会長】、第4部会「三公社五現業特殊法人等のあり方」の初会合を順次開いた。部会を構成するメン バー延べ78人のうち、6割を財界・官界の出身者が占め、労働界からはわずか3人の参加にとどまった。国鉄問題の審議は9月7日に設置された「三公社五現 業、特殊法人等のあり方」を検討する第4部会に委ねられ、第4部会長には加藤寛慶応義塾大学教授が就任し、部会長代理を2名おき、専門委員7名、参与9名 の構成でスタートした。こうして週1回といわれる早いペースで基本答申に向けた活動が開始された。
 さて、1982年になると、国鉄「改革」をめぐる動きは、臨調第4部会での討議と併行してその内部情報のリーク【意図的漏出】とともに、いわゆる自民党 三塚委員会の活動と提言、マスコミ上での国鉄「破産論」や国労敵視キャンペーン、そして国鉄内における「太田労政」の展開などが相互に関連しあいながら文 字どおり国鉄つぶしを狙った国鉄「分割・民営化」論が、第2臨調第4部会報告を経て7月30日に第三次答申【基本答申】へと急展開していった。第2臨調の 第三部会長をつめ、後に国鉄再建監理委員会委員長に就任した亀井正夫日経連副会長は「国労動労を解体しなければダメだ。戦後の労働運動史の終焉を、国鉄 分割によって目指す」と語っていたという(『文芸春秋』1985年9月号所載の内藤国夫国鉄落城前夜の修羅場」による)。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 47

 

鈴木善幸内閣は、昭和55年、選挙中に亡くなった、大平正芳前首相の盟友であった田中角栄元首相の意向を受けて誕生した内閣で、本人も予測していなかった節があり、角福戦争のしこりもあって、党内にもこれ以上の混乱は避けたいと言った意向もあり、結果的に田中角栄が強く推薦する形で誕生したと言われています。

本人も、そうした事情と言いますか空気を読んでいて、「和の政治」をスローガンに掲げて就任しました。

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鈴木善幸首相 画像 wikipedia

 

また、石油ショック以降に財政収支が悪化していたこともあり、昭和50年(1975)から赤字国債の発行が平成5年(1993年)まで続けられることとなりました。

目標としては、国庫財政を立て直すため、1984年(昭和59年)までに赤字国債脱却を目標とし、増税を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示す「増税なき財政再建」を最重要課題として掲げていました。

その流れを汲んで、行財政改革に取組んでいきました。

それが、その後新自由主義の流れの中で中曽根行革へと続く道筋を作っていったと言えそうです。

 

ただ、和の政治家と言う印象の他にもう一つ、田中角栄元首相とも相通じるものがあり、東北新幹線の終点を盛岡にしたのも実は鈴木善幸氏の意向があったからと言われています。

 

昭和46年(1971年)鈴木善幸氏が鉄道建設審議会長で有ったときに、仙台までで止めておきたい国鉄・運輸。大蔵省に対して、盛岡延長を強く希望したからだと言われています。

なお、この時の「新全国総合開発計画」というのは、昭和60年までに全国に高速道・高速鉄道などを整備するというもので、当初は北海道まで一気に開通させるとしていましたが、財政的な問題もあり、当初案では仙台であったのを無理やり盛岡に延長したと言われています。

また、三陸鉄道を開通させたのもいわば鈴木善幸首相による意向でありそれ以外にも多数の施設の誘致など地元利益誘導型の古いタイプの政治家でもありました。

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 画像 Wikipediaから引用

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当時、鉄道建設審議会長であった鈴木は新全国総合開発計画の流れを受けて全国新幹線鉄道整備法議員立法で制定したが、国鉄の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する大蔵省・運輸省国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森から青函トンネルを抜け札幌まで延伸させる計画(後の北海道新幹線)であったため鈴木はこれに難色を示す。「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うのであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。だからせめて盛岡までは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。結果、『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』において東京都-盛岡市として決定された。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 岩手放送、1991年 引用Wikipedia から

そこで、ここで打ち出された、

今までも、国鉄財政再建については色々と検討されてきましたが、ここに来て国鉄の抜本的改革を目指して、「国鉄再建特別措置法」が公布され、「輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項」・「運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項」ということで、輸送需要に適合した・・・要は採算の全く合わないローカル線は基本的に廃止ですよと謳っています。

なお、それを受け「第8条 日本国有鉄道は、鉄道の営業線(幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除く。)のうち、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。・・以下は省略」で地方交通線を選定する旨書かれています。

目玉政策も無かった鈴木善幸首相が始めた行財政改革はその後大きな流れとなり結果的にはそれまでくずぶっていた、国鉄民営化まで進んでいったと言えるかもしれませんが、ちょうどこの頃は新自由主義が世界的にも流行となっていた時期でもあり現在の低迷している時代に有って、新自由主義そのものが正しかったのかと言う懸念は有りますが、結果的に日本もその流れに組み込まれるように新自由主義の中に巻き込まれていくようになっていったように思われます。

(趣旨)

第1条 この法律は、我が国の交通体系における基幹的交通機関である日本国有鉄道の経営の現状にかんがみ、その経営の再建を促進するため執るべき特別措置を定めるものとする。

(経営の再建の目標)

第2条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和60年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

(責務)

第3条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

(経営改善計画)

第4条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。

1.経営の改善に関する基本方針

2.事業量、職員数その他の経営規模に関する事項

3.輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

4.業務の省力化その他の業務運営の能率化に関する事項

5.運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項

6.組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項

 

 

7.収支の改善の目標

8.前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

 

 以下は、国労の本文になります。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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鈴木内閣はその当初から「増税なき財政再建」を表看板とし、国家予算の歳出見直し、各種補助金のカット、福祉関係予算の圧縮など緊縮財政措置に取り組み、 翌81年3月16日には第二次臨時行政調査会(会長・土光敏夫前経済連会長)を発足させた。この第二臨調と前後して、「国鉄再建特別措置法」が公布・施行 された(3月11日)。
 さて82年10月、鈴木首相が自民党総裁選への不出馬を表明したことから自民党総裁予備選挙が行われ、その結果を受けて鈴木総裁の後継者には中曽根康弘 行政管理庁長官(行政改革担当大臣)が選ばれ、2月27日には中曽根内閣が誕生した。中曽根首相は就任後、「私は改憲論者」と国会で答弁し、その後も「戦 後政治の総決算」「日米は運命共同体」などと発言し、又鈴木内閣から引き継いだ行政改革の”断行”を強調し、いわゆる「民活論」を唱えながら臨調一行革路 線の具体的推進高った(ママ)。この中曽根内閣の登場は、イギリスにおける保守政党サッチャー政権の牽(1979年青)及びアメリカにける共和党レーガン 大統領の双 (1981年月)と並び称されるほどに”新自由王弄の流れに乗っているところに特徴があり、又従来の自民党的手法の政治とはいささか異なる側 面をもっていた。
 その流れは、対外的には「強いアメリカ」(レーガン)、「フォークグランド武力制圧」(サッチャー)・「日本列島不沈空母化」中曽根とを3張しつつ、国 内的にはいずれも「小さな政府」「規制緩和」「民営化」などを旗印とし、それらを目指した。「改革」が1980年代を特徴づけた。また中曽根内閣では、審 議会や懇談会、調査会といった諮問機関を多く設置して、その答申や報告を援用しながら政治をすすめるという手法が目立った。防衛費の1%わく問題を始め、 国鉄分割・民営化、教育改革、靖国神社公式参拝など、これら諮問機関に自分のブレーンである学者や文化人を送り込んで政策展開の地ならしを行い、マスコミ をとおして世論操作の道具ともした。
 1981年7月10日に出された第2臨調の第1次答申は、「行政改革の理念と課題」「緊急に取組むべき改革の方策」「今後の検針方針」の十二部から成 り、答申の骨子は「活力ある福祉社会の実現」「国際社会に対する貢献の増大」を基本理念におき、82年度予算編成に関連した「緊急に取組むべき改革方策」 として補助金等の削減給枠の設定、教科書無償制度の再検討、公共事業費の前年同額以下への抑制、国家公務員の削減計画の強化、公務員給与の抑制など支出削 減の個別的方策まであげた。「今後の検討方針」として「行政の役割の見直し」「官民の役割分担」などを柱に特殊法人の民営化、情報の公開やオンブズマン制 度の導入をかかげて、財政支出の削減、行政の効率化をテコに「国の歩み」
「行政のあり方」の転換をはかる。という行政改革の位置づけ、ないし方向性を示すものとなっていた。 
 

国鉄労働組合史詳細解説 46

 

みなさま、こんばんは、長らく放置してしまって申し訳ありません。この辺りまで来ると複数の要素との組み合わせが出てきますので、併せて国鉄があった時代blogも併せてお読みいただければ幸いです。

国鉄財政再建が本格化した昭和55年

blog.goo.ne.jp
当時の国会議事録を参照しながら、簡単な解説を加えさせていただいております。

さて、国労が、「赤字ローカル線の切り捨てと国鉄労働者7万4000人削減(35万人体制)を柱とした国鉄経営再建特別措置法案」とはどのような法案だったのでしょうか。

簡単にまとめると

  • 人員整理を行い、昭和60年度までに35万人体制にします。(当時の国鉄職員は40万人)
  • 地方ローカル線は基本廃止します。ただし、地方が残したいということであれば地方に譲渡します、その仕組みも作ります。
  • ローカル線建設も基本ストップします、ただし、必要な路線は別途建設します。
  • 全国一律ではなく地方の実情に応じた運賃にします
    と言ったところでしょうか。

深刻な慢性的赤字と国鉄再建

まず最初に、国鉄の経営再建の目標と言うことが掲げられました。

スト権スト以降、大幅な運賃値上げなどもあって、国民の国鉄離れは深刻化し、運賃値上げしても想定以上に国鉄の利用者が減り、通勤・通学輸送では並行する私鉄に奪われたり、中長距離では飛行機料金との差額が小さくなったことから飛行機利用が一般化し東京⇔札幌や、東京⇔博多といった長距離路線では鉄道は歯が立たなくなり、特に東京⇔博多などでは新幹線と言う選択肢があるとしても片道7時間はやはり昼行列車の利用時間としては限界であり、飛行機の利用が好まれる結果となっていました。
そうしたわけで、国鉄の本来得意とする中距離旅客輸送も飛行機と高速バスに浸食され、貨物輸送に至っても車扱いの単一貨物輸送などもトラックへの切り替えなどで減少傾向となっており、唯一気を吐くフレートライナーに代表されるコンテナ輸送だけという現象になっていました。

そんな中、国鉄財政再建計画として「国鉄経営再建特別措置法案」が提出されたのでした。
特に目玉と言える政策を持っていなかった鈴木首相にしてみれば、財政再建は自身にとっても丁度良い政治的材料と言えました。

当初は、民営化ありきでは無かった国鉄改革

そこで、法案を参照しますと、

 「昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。」と言う方向性は示されていますが、国鉄を民営化するつもりは全くありませんでした。

それは、第3条2項、「国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずる」と書かれているところからも見る事が出来ます。

(経営の再建の目標)

第二条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

 (責務)

第三条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

 さらに、具体的な経営改善計画として、下記のように職員数の削減などについても言及しています。

「二 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項」とあるように、職員数削減を求められているわけで、昭和60年度末までに35万人体制(実際の民営化前にはさらに絞り込まれた任数になったことはご存じのとおりです。)

(経営改善計画)

第四条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。

 一 経営の改善に関する基本方針

 二 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項

 三 輸送需要に適合した輸送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

 四 業務の省力化その他の事業運営の能率化に関する事項

 五 運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項

 六 組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項

 七 収支の改善の目標

 八 前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

国鉄ローカル線に有っては原則バス化もしくは地方切り捨て政策

さらに、国労の資料でも「赤字ローカル線の切り捨て」と言う風に書かれていますが、国鉄ローカル線については基本的に国鉄の経営から切り離す。

ただし、特定の条件(並行道路の未整備など)に該当する場合は除外しますと言う方向性が打ち出されました。

地方に多くある第3セクターの私鉄はその殆どが国鉄のローカル線を転換したものであると言えましょう。

いすみ鉄道若桜鉄道も第1次地方交通線として廃止転換されたものです。

www.isumirail.co.jp

http://www.infosakyu.ne.jp/wakatetu/

両鉄道とも色々なアイデアを出して頑張っておられますが、どうしても沿線人口の減少などもあり楽観は許されないと思われます。

ちょっと話題がずれてしまいましたので、本題に戻したいと思います。

特に、第8条で「幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準」と言うことに対して判断基準があいまいになるのではないのかと言った質問が何度もされています。

地方交通線の選定等)

第八条 日本国有鉄道は、鉄道の営業線(幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除く。)のうち、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。

2 日本国有鉄道は、前項の承認を受けた鉄道の営業線(以下「地方交通線」という。)のうち、その鉄道による輸送に代えて一般乗合旅客自動車運送事業(道路運送法(昭和二十六年法律第百八十三号)第三条第二項第一号の一般乗合旅客自動車運送事業をいう。以下同じ。)による輸送を行うことが適当であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。

3 日本国有鉄道は、前項の政令で定める基準に該当する営業線を選定したときは、その旨を関係都道府県知事に通知しなければならない。

4 前項の通知を受けた都道府県知事は、当該通知に係る営業線の選定について、運輸大臣に対し、意見を申し出ることができる。

5 日本国有鉄道は、第一項又は第二項の承認を受けたときは、遅滞なく、当該承認に係る地方交通線について運輸省令で定める事項を公告しなければならない。

6 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、経営改善計画において、第二項の承認を受けた地方交通線(以下「特定地方交通線」という。)ごとに、その廃止の予定時期及び次条第一項に規定する協議を行うための会議の開始を

 

希望する日(以下「会議開始希望日」という。)を定めなければならない。

 最後に、国労が語っていますが、現在も問題として話題に上る、赤字国債(それまでも国債は発行されていましたが、それは予算の範囲内での発行であり財源不足を補うための国債発行は本来は非常措置として厳しく戒められていました。その後は、「1974年度以降、赤字国債発行が普通のこととなってしまい、1980年度 末には国債発行残高が国家財政の2年分を上回る70兆円を超え、83年度末には100兆円を超えることが予想されるようになっていた。」という国労の解説に繋がるわけです。

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紀勢本線を行く春日塗の113系

************************************以下は、国労本文になります。*******************************

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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 赤字ローカル線の切り捨てと国鉄労働者7万4000人削減(35万人体制)を柱とした国鉄経営再建特別措置法案は、1980年2月に国会に提出された が、この年5月、社会党提出の大平内閣不信任案が可決されて衆議院は解散となりいったんは廃案となった。しかし、6月22日の衆参同日選挙の結果は、自民 党が圧勝し、選挙中に急死した大平首相を継いだ鈴木内閣は、財政再建のための行財政改革を最重要課題とするとともに、「国鉄経営再建特別措置法案」を再提 出した。
 もともと政府は、1973年秋の石油ショック後の長期不況(スタグフレーション)のもとで74年度以降、赤字国債発行が普通のこととなり、1980年度 末には国債発行残高が国家財政の2年分を上回る70兆円を超え、83年度末には100兆円を超えることが予想されるようになっていた。一方に、やはり財政 赤字に悩むアメリカから極東における日本の防衛負担の拡大(防衛費の増大)を押しつけられながら、国内では財界から「増税なき財政改革」を迫られ、 1970年代後半の歴代自民党政府はいずれも「行財政改革」を掲げていた。

国鉄労働組合史詳細解説 45

国鉄赤字と再建計画

国鉄における赤字は昭和39年度に始まり、その後は赤字が解消することは無かった、昭和40年に運賃改定が行われていれば赤字に陥ることが防げたのではないかとも言われています、この時期はまだ余裕があり昭和43年頃から減価償却前でも赤字を計上するようになったと言われています。

すでに昭和30年代から見え隠れしていた赤字体質

ただ、昭和30年代は潤沢に黒字を計上していたかと言うとそうでもなく、戦争中に疲弊したレールなどの更改やその他老朽資産の置換えに費用を使っていた他、後に記しますが一部貨物の政策運賃として低く抑えられていたことや人件費の高騰などもあって徐々にその経営を圧迫していたのも事実でした。

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地方交付金の一部として使われた納付金制度

他にも、地方交付税の不足を補うために固定資産税相当額を地方納付金と言う名称で地方自治体に納付させる制度がありました。

こちらも、昭和31年に制定されたもので、電電公社日本専売公社も対象になっていますが、鉄道の場合線路がすべてその対象となるため電電公社日本専売公社よりも負担額は大きかったものと思われます。

注:納付金問題は、昭和24年から?

*1

   wikipediaから引用させていただきます。

国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律として昭和31年に制定され、市町村交付金の他に市町村納付金が存在した。納付金とは、日本国有鉄道日本電信電話公社日本専売公社の旧三公社に対して課せられるもので、特徴としては、基準日が交付金と異なり固定資産税と同じ納付年の1月1日となっていたり、納期限は7月31日と12月31日の2回に分けて納付される等市町村交付金と固定資産税の中間的なものになっていた。

国有資産等所在市町村交付金 - Wikipedia

参考 国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律

法律第八十二号(昭三一・四・二四)

さて、こうした数々の赤字になる要素は有ったと思われます。

新幹線の開業が赤字を誘発したわけではありません。

さて、先ほど書きましたが人件費は昭和30年代から70%近くを占めており、戦時中の復員と満州鉄道、海軍・陸軍の技術者などを受入れた特定人件費部分も大きかったと言われています。

そしてもう一つは特定貨物輸送に対する大幅な運賃割引でした。

石炭やセメントと言った重厚長大な貨物に対して大幅に割り引いた運賃を強いられており収支合償わなかったとも言われており、この辺は国鉄当局も苦慮していたのですが政府の政策的意味合いで低く抑えられていたといわれています。

この辺は組合も反対はしていました。

そんな中で、昭和44年頃から再建計画が立てられるのですが、再建計画のための再建計画と揶揄されるように再建計画はことごとく失敗し、赤字は急速に増えていくこととなりました。

昭和55年の運輸白書から引用します。

(3) 第3次再建対策(51~52年度)

  日本国有鉄道再建対策要綱(50年12月閣議了解)において次の具体的な内容が定められ,また,これに伴い必要な法改正が行われた。その後,対策の一 層の推進を図るため,日本国有鉄道の再建対策について(52年1月閣議了解)に基づき国鉄の投資事業範囲の拡大,運賃決定方式の弾力化等を内容とする法改 正が行われた。

〔対策の概要〕

 ① 財政再建の目標

 51及び52年度の2カ年で収支均衡を図る(52年1月の閣議了解において,54年度までに収支均衡を図ることと改定された。)。

  ② 経営分野

 国鉄は,我が国の総合交通体系のなかで,今後とも都市間旅客輸送,大都市圏旅客輸送及び中長距離・大量貨物輸送について重点的にその役割を果たすべき であるが,同時に,その本来の使命からみて,これら以外の分野を含めた全体について,独立採算性を指向した自立経営を行うこととする。また,赤字ローカル 線は,国の積極的な支援のもとに,国鉄の責任においてその取扱いを検討することとする。

  ③ 経営の合理化

 貨物輸送等の近代化,合理化等を行うことにより55年度までに要員増を含め1万5,000人の要員縮減を行う。

  ④ 運賃決定制度の弾力化

  国鉄の自主的経営能力を強化するため,運賃法定制度を改め,その決定方式を弾力化する。

 ⑤ 経営改善計画の策定

  国鉄は,その経営の健全性を確立するため,経営の改善に関し必要な事項についての計画を定め,これを実施することとする。

  ⑥ 国の助成

  国鉄の膨大な過去債務から生ずる財政上の圧迫を抜本的に解消するため,50年度末債務の一部(約2兆5,404億円)について棚上げ措置を講ずる。

  なお,これらの再建対策に応じて,国が講じた具体的な助成措置は下図のとおりである。

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 結局、利子が利子を生む自転車操業状態になり、,昭和50年度末における累積赤字のうち2兆5,404億円の 繰越欠損金及びこれに相当する長期債務をについては、特定債務整理特別勘定において別途計理することとして、昭和51年度からは特定債務について 政府からの利子補給及び償還資金の無利子貸付けを受ける等の補助を受けるようになるのですが、それでも赤字は増え続けることとなりました。

国鉄としても、貨物輸送の合理化(拠点の集約・ヤードパスの地域間急行貨物列車などの増発)といった貨物輸送合理化を推進しようとしました、更にはその後問題となってくるのですが、地方ローカル線の分離・バス輸送化が叫ばれました。

昭和52年時点における貨物輸送の鉄道が占めるシェアは11%でありこれはコンテナ輸送も含めた数字であり車扱いだけでは7%程度まで落ち込んでいたと思われます。

ローカル線の審議にかかる内容などは、幣ブログ「国鉄があった時代blog 「国鉄改革関連国会審議」を参照」願います。

国鉄があった時代blog版

国労運動方針の転換

国労の運動方針がこの時期に変化したことは注目に値するかもしれません。

スト権ストの失敗の反省から、”国民の国鉄”と言う方針に転換していきました。

そこで、①国民の生活要求にもとづく国鉄づくり。②国鉄経営の民主化に分けて具体的に方針を決めた。

① 総合的な交通民主化のたたかい

②「国民の足を守る会議」の充実・強化

③貨物輸送の民主化

④地方ローカル線問題などへの取り組み

と言った方針を出してきたようです。

とありますが、これがローカル線廃止反対運動などとして繋がっていくわけでしょう。

 

***********************以下は、国労の資料になります。*******************************

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 3 「国民の国鉄」を目指す民主化・政策要求闘争
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├○ 国鉄「再建」の計画の挫折と政府・国鉄の対策 │
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 国鉄は、75年度現在、累積債務6兆7793億円、単年度決算で9147億円の欠損を出していた。これまでの政府や当局の国鉄「再建」計画は、つぎつぎ に失敗した。とくに「財政再建10か年計画」は、オイルショック、インフレのもとで破綻を余儀なくされた。75年12月、政府は、「国鉄再建対策要綱」を 閣議了解し、関連法案を翌年の国会に提出した。だが折からのロッキード疑惑の発覚で国会審議は中断し、国鉄関連法案は審議未了または継続審議となった。 「再建対策要綱」は出発からつまずいた。
 77年1月、政府は改めて、79年度に収支均衡を図る「日本国有鉄道の再建対策について」閣議了解した。そして、運賃値上げが意図されたが、継続審議と なり、秋に国会を通過した。この間、76年12月を中心に貨物大「合理化」提案が出され、77年、78年、国労動労は、貨物「合理化」反対闘争を展開し た。
 77年12月、政府は、「日本国有鉄道の再建の基本方針」を閣議了解した。これに沿って、国鉄当局は『国鉄再建の基本構想案」を提出した。それに基づ き、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法案」が80年2月、国会に提出された。70年代前半の政府・国鉄当局の「再建」策は結局、運賃値上げと要員削 減、貨物「合理化」とローカル線切り捨て、若干の公的助成に留まり、抜本的な総合交通政策を提示できず、国鉄の縮小再編へ、向かっていった、

┌──────────────────┐
├○ 民主的規制から民主化政策要求へ │
└──────────────────┘

 国労は、長年の「合理化」反対闘争、スト権奪還闘争などの経過と教訓を踏まえ、全交運の仲間や地域住民とともに、「国民の足を守る」闘い。「国民の交 通・国民の国鉄」を目指す闘いを積み重ね、政府・当局の再三の「再建」計画に対し、国鉄民主化国鉄の民主的再建を主張して闘ってきた。
 77年8月の第39回定期大会(新潟市)では、これらの取り組みをより総合的かつ系統的に発展させる必要があるとの立場から、民主的規制という新しい方 針を打ち出した。この民主的規制は、①社会的レベルにおける国鉄の民主的規制と②国鉄内の民主的規制の二つのレベルで構成され、具体的な闘いとしては、① 総合的な交通民主化のたたかい、②「国民の足を守る会議」の充実・強化、③貨物輸送の民主化、④地方ローカル線問題などへの取り組みを提起していた。
 この民主的規制方針の提起の背景には、国鉄再建問題がきわめて政治色の強い問題として浮かび上がっているという情勢、国会が70年代後半、与野党伯仲の 場面を迎えており、国鉄の再建策をめぐって各野党の政策提起が相次ぎ、重要な点での製作一致の可能性も見通せるとの情勢の発展もあった。
 方針討議では、民主規制について、貨物「合理化」との闘いと関連させた多くの意見表明があった。同時に本部が提起した「労働者の自主的規律」をめぐって も論議が集まった。その結果、「働く、要求する、たたかう」という三要素を結合していく作風を職場で確立していくことが、国労の課題として確認された。こ れは、当時、異常とも思えるマスコミの「国鉄職員タルミ論」の立場からするキャンペーンに対して批判的に対処するためであったが、同時にそうしたキャン ペーンが、生じていた事態の一面を誇張しているにせよ、全面的に否定しさることができないという事実への自省の念も込められていた。
 他方、民主的規制を含む新しい方針案は、最終的に原案どおり可決・決定された。大会後、民主的規制について、中執の「統一見解」をまとめ、78年には、『国鉄新聞』2月12日付で、「”民主的規制”問題討議資料」を特集した。
 78年7月に第40回定期大会(高知市)では、「民主的規制」を「”国民の国鉄”を目指す民主化・政策要求闘争」という表現で定式化した。この点、書記 長は、「”民主的規制”」の用語が労使協調と誤解されたので民主化・政策要求闘争と改める。しかし汚染の内容は変わらない」と述べた。79年7月の第41 回定期大会(鹿児島市)では、それまでの「国民の国鉄」を目指す民主化・政策要求闘争の成果と問題点を整理し、これからの闘いの目標とその組織化につき、 ①国民の生活要求にもとづく国鉄づくり、②国鉄経営の民主化に分けて具体的に方針を決めた。
 だが、80年代を迎える国労の前途は、当面する政府、当局の国鉄対策を見る場合、きわめて多難であった。国鉄は、79年度に812億円の欠損を出し、繰 越欠損金は、76年度の棚上げ2兆540億円と資本積立金5,604億円を差し引いても3兆5,167億円となり、長期債務残高は10兆円を超えていた。

続く

*1:国鉄地方税との関連の歴史は古く、昭和24年、25年に出されるシャウプ税制勧告まで遡ることが出来ます。その後、紆余曲折はありますが、駅等への固定資産税が先行して昭和29年頃から課税され、その流れで地方納付金が決定されていった経緯があります。
その辺は更に体系的に今後調べていければと考えております。

国鉄労働組合史詳細解説 44

国鉄分割民営化はスト権ストで検討された?

75年に行われた、スト権ストは、政府も公務員並びに公共企業体職員のスト権を容認する方向で動いていた時期もありましたが、スト権問題を検討していた公共企業体等関係閣僚協議会という専門委員懇談会では、当初から「事実上、国鉄や郵政などの官公労働者のスト権を認めない」と言い方針を堅持しており、更にはこうした公企業に対して民営化(国鉄の場合は分割を含む民営化)を検討していたといことは注目に値します。

 「現在の主流をなす労働組合の体質とその実績からみて、当然の権利として、争議行為が繰り返されることが予想される」 とした。
こうした観点から、意見書は、争議権問題を労使関係の見地からだけで処理しようというのは 「真の解決」 にはならないとして、この問題は経営形態とともに検討されねばならないとうたったのである。

国鉄分割民営化は土光臨調でいきなり出てきたわけではなく、この時点ですでにその萌芽があったと言えましょうか。

増え続けた国鉄赤字

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運輸白書昭和51年度から引用

国鉄の決算を見ていますと、昭和39年度の赤字決算以来毎年赤字を重ね昭和43年には累積積立金を取り崩してしまい、昭和46年度には償却前の赤字を計上、昭和48年度には負債総額が資産総額を上回るいわゆる資本マイナスの状態に追いこまれるわけで、運輸省から分離した国鉄は、運輸省に対して対立する存在から、協力を求める、さらには応援を求める立ち位置に変わっていくこととなりました。
日本の交通の不幸は運輸省国鉄が独自に交通体系を作ろうとしたことに不幸があったと個人的には思っています。

ただ、この辺のお話は労働組合のお話から外れますので別の機会にさせていただこうと思います。

スト権ストの後に設立された「公共企業体等基本問題会議」

さて、昭和50年(1975年)のスト権ストは国鉄労組にとっては敗北でしたが、その後政府は、公労協の問題を話し合うために、公共企業体等基本問題会議を昭和53年(1978年)1月に発足させました。

この会議で答申された内容は以下の通りで、国鉄ローカル線の分離民営化まで踏込んで答申されていると言うことです。

同年の6月19日には、公共企業体等基本問題会議は下記の意見書を提出しました。

  • 国鉄地方線
  • たばこ専売
  • アルコール専売の民営移管・争議権付与
  • その他(国鉄幹線系)及び郵政・電々公社・造幣・林野は現状 維持
  • ただし労使関係正常化のための労使の話合いの場を設ける

こうして労使のトップクラスの話合いの場として,公共企業体 等労働問題懇談会が設置されました。

この時点ですでに地方ローカル線は分離する方向性が打ち出されていたことであり、これがその後の国鉄ローカル線廃止の際の参考にもなっていったと思われます。

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公労協と公共企業体等基本問題会議

公労協は、初めは公共企業体等基本問題会議を無視する方針をとったそうですが、12月になって政府から「組合側の意見を十分参考にする」との回答があったことで公労協側も態度を軟化、出席して意見 を述べることになったそうです。

昭和53年(1978年)1 月13日、国労を皮切りに組合側の意見陳述に入ったそうで、国労意見は下記のような内容だったそうです。

  1. 基本的には労働基本権の全面一律禁止は認められない。しかし、公共輸送を担う労働組合の基本的姿勢として、ストの予告などの一定の制限も否認するものではない。
  2. (略)
  3. 国鉄の経営形態について、分割民営化ともに認めることはできない。公労法を撤廃し、日鉄法、営業法の制約を撤廃し、国鉄当局の当事者能力の回復を求める。分割・民営化などの経営形態の変更は真の国鉄「再建」にはなりえない。

 ということで、国労側の資料では2番目がどのよう内容であったのかもう少し調べてみないと判りませんが、少なくとも国鉄の当事者能力の回復を組合が求めていることは、組合としても国鉄の現状が縛られた巨人あることを理解していたと思われる点。

また、公共輸送という視点から争議権についても一定の制限は認められるということで、何でも反対という視点からの反対でないことが伺えます。

 

なお、この章は長いので改めて後半についても別に解説をさせていただきます。m(__)m


*1公労協

 

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 2 スト権回復立法構想の提起
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├○ 公共企業体等基本問題会議をめぐる動向とスト権立法構想 │
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 スト権ストの最中、75年12月1日の政府声明に基づき、76年1月の閣議で、公共企業体当基本問題会議の設置を決め、7月に発足した。そして、公社な どの①経営形態、②当事者能力、③法令関係の三つの懇談会に分かれて、77年秋までに調査・ヒアリングを終え、78年6月には「結論」をだすというスケ ジュールで審議を進めていた。国鉄関係では、77年10月に鉄労、全施労の意見聴取が行われた。国鉄総裁も、意見を述べた。公労協は、初めは公共企業体等基本問題会議を無視する方針をとった。だが12月、政府から「組合側の意見を十分参考にする」との回答があり、出席して意見を述べることにした。78年1 月13日、国労を皮切りに組合側の意見陳述に入った。国労意見は、次のような内容であった。

 ① 基本的には労働基本権の全面一律禁止は認められない。しかし、公共輸送を担う労働組合の基本的姿勢として、ストの予告などの一定の制限も否認するものではない。
 ② (略)
 ③ 国鉄の経営形態について、分割民営化ともに認めることはできない。公労法を撤廃し、日鉄法、営業法の制約を撤廃し、国鉄当局の当事者能力の回復を求める。分割・民営化などの経営形態の変更は真の国鉄「再建」にはなりえない。

78年2月の第121回拡大中央委員会では、6月に予定されている基本問題会議の答申が、スト権論議どころか、国鉄の分割・民営化の方向に傾きつつある状 況を踏まえ、スト権奪還闘争の筋道と自らのスト権回復の立法構想を明らかにし、基本問題会議の答申起草作業に一定の圧力を加える必要を決めた。
 その決定に基づき、学者、弁護士、本部役員からなる「スト権立法対策委員会」が78年3月1日、第1回委員会を開き作業を開始した。78年5月の国労第122回中央委員会には、「スト権回復・立法要求」案が提案された。
 その内容は、まずスト権問題を立法によって解決する場合の基本的前提を述べ、ついで国民生活との関係でスト規制が考えられる諸類型を挙げ、その類型に沿った対応策を提起したうえで、「立法要求の骨子」を次のように提示した。

 

① 全面・一律スト禁止法規の撤廃を
 ② 「国民生活」上の不利益との対応は、労調法上の規制に一元化を
 ③ 「経営形態」論とは別個・無関係なスト権確立を
 ④ 財務民主主義との関連は、国の特別の財務支出の場合に限定を
 ⑤ 国営事業における労使関係の特殊性にみあった、迅速な事件処理のために公労委の  存置を
 ⑥ 労組法・労調法への一元化を原則に、国営事業における労使関係の特殊性にみあっ  た例外的措置に関する特別法として、公労法の縮小・存続を

 この「立法要求の骨子」の各項目にはコメントがつけられ、最後に、「われわれとしてはギリギリの立法要求なのである」と結んだ。中央委員会では、書記長の集約答弁を経て、「当面の闘争方針』とともに承認sれた。そして、「立法要求」を基本問題会議と政府に提出した。
 78年6月19日、公企体等基本問題会議の「意見書」が政府に提出された。これは三つの懇談会の三報告書に、「本文」は、大要次のような意見であった。

 ① 民営等への移行で適切なもの(国鉄の地方線は特殊会社に、たばこ・専売は民営   に)は、移行実施後に公益事業としての制約をうけることはあっても争議行為は認め  られる。
 ② 国有・国営形態を維持するもの(国鉄幹線、電電、郵政、林野など)は、現時点に  おいて争議権を認めることは適当でない。

 この「意見書」は、1980年6月6日、「公共企業体基本問題意見書に関する検討結果報告書」として公表された。その内容は閣僚協専門懇意見書の考え方 の延長線上にあり、最高裁判例を下敷きにし、一層ひどい内容の労働基本権規制を盛り込んでいた。もちろん、国労の「立法要求」などは一顧だにしなかった。 これが、スト権ストを経て、70年代末、80年代初頭、政府、財界の労働基本権問題に関する総括的意見であった。
続く

*1:( 正式名称は公共企業体労働組合協議会。いわゆる三公社五現業労働組合で、昭和28年(1953年)のベースアップ闘争を契機に結成されたもので、いずれも総評(日本労働組合総評議会)加盟の9組合(国労動労全逓全電通全林野、全専売、全印刷、全造幣、アルコール専売)で構成され,かつて日本官公庁労働組合協議会の中心勢力。)

国鉄労働組合史詳細解説 43

 

みなさまこんにちは、気が付けば2週間ほどまた放置しておりました。
申し訳ありません。なかなか書き続けることは難しいものです。
単純に私の能力が不足しているわけですが・・・。

今回は、各種判例を参考に当時の世相などを私なりの見解でまとめてみたいと思います。

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幻に終わったスト権奪還

公務員にスト権ストは国鉄労組の敗北で終わりをつげることとなりました。

それまでは、公務員も27年ぶりにスト権が戻るといわれたものですが、その半年後には数多くの公務員労組に対する団結に関しては違憲であると言う判決が出されました。

公務員というのはその性格上から、身分の安定はある代わりにある程度の制限を受けると言うことが定められており、争議権の禁止等はその顕著な例でしょう。
一般公務員の場合は団結権は認められているものの、団体交渉権などは認められていませんでした。

そういった意味では、特に公共性の高い仕事をしていますので公務員と言うのはそういった意味では単純に労働者と言うくくりで決められないところがあるのも事実でした。

 


日本国有鉄道(現在、JRグループ)スト権スト/1975年

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スト権は取れると思っていたと談話を発表する松崎明国鉄動力車労働組合委員長(当時の役職は東京地本委員長)

公務員のストは違法という風潮は昭和48年に全農事件から始まった。

今回は、最初に「全農林警職法事件-昭和48年4月25日最高裁判決」
とはどんな事件だったのか簡単に触れてみたいと思います。

昭和33年10月警察官職務執行法改正を当時の首相であった岸信介(安倍首相の祖父)が提出した法案で、警察官の権限を強化しようとするもので、警察の業務である、「個人の生命、安全、財産保護」の観点を解釈を拡大して「公共の安全と秩序」を守ることの大義名分を果たすために、警察官の権限を強化しようとしたもので、

 

  • 警告、制止や立入りの制限の権限や
  • 「凶器の所持」調べを名目とする令状なしの身体検査
  • 保護を名目とする留置

を可能にするという内容であり、戦前の評判が悪かった「オイコラ警察」を想起させるものと言われました。

労働組合としても、「公共の安全と秩序」という名目で組合活動に介入するのではないかという疑念が起こり反対運動が起こったと言われています。

全農林警職法事件概要

全農林警職法事件も、11月5日全農林労組(総評)が職場大会の実施について、午前10時頃から11時40分ごろまでの間、農林省職員約3千名に対して職場大会への参加を仕切りに要請したことは、職務専念義務に違反しているとして、国家公務員法98条5項(改正前)改正後は98条2項に抵触するとして、起訴したものです。

参考 全農林警職法事件 - Wikipedia

  国家公務員法98条5項(改正前)改正後は98条2項

2 職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。

又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。

公務員はその労働条件に制限をくわえられるのは多少は仕方がないということ

結論から言えば。
憲法28条の労働基本権の保障は公務員に対しても及ぶが、この労働基本権は、勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れない・・・

として、公務員がその業務の特殊性に鑑みある程度制限されるのは当然だろうと言う解釈がなされています。
当然と言えば当然なんですけどね。

これは、同じような事例として地方公務員にも当てはまるとした、岩教組学テ事件(最大判昭和51・5・21)でも同様の判例が出されています。

当然のことながらこうした判例では、公務員の準じる扱いの公社職員も同じ法理が当てはまることになりました。

国労の記事から引用します。

1975(昭和50)年のスト以来、官公労働者の労働基本権をめぐる政治・判例動向は、年々、遺憾な方向に向かっていた。最高裁判決ではすでに全農林警 職法事件判決で、これまでの判定から逆転し、スト権否認の方向が強まった。その後も、公務員の政治活動禁止を合憲とした全逓猿払事件判決(74年11 月)、学力テスト反対闘争中の説得活動を有罪とした岩手学テ事件判決(76年5月)などが相次いだ。

組合バッチや、反戦プレートも組合活動と見做される。

77(昭和52)年12月13日、最高裁は、目黒電報電話局事件に対する判決を行った。判決で、最高裁は、職員の職務行為になんら支障のない反戦プレー ト着用をとらえて、その行為は政治活動を禁止した電電公社就業規則に違反するとしただけでなく、この行為は職務専念義務にも違反し、さらに職場規律をも 乱すとして懲戒処分の対象になると断じた。つまり、職場における日常の組合活動すら否認しかねない「法の論理」が展開していた。

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ここで注目したいのは、「職員の職務行為になんら支障のない反戦プレー ト着用をとらえて、その行為は政治活動を禁止した」とありますが、こうしたワッペン類や組合バッチなども労働組合運動としてみなすという判決が(昭和52)年12月13日最高裁から出されました。

これについては、私も郵政省に勤務していましたので事情はある程度了解できます。

まず、郵政でも、反戦プレート類の着用は禁止されていたと思いますが、組合バッチについては容認されており、管理者に聞いたところ、郵政の場合労働組合とは組合バッチに関しては協定を結んでおり、組合バッチに着用は組合活動と見做さないという協定を結んでいたそうです。

なお、この組合バッチ=労働運動というルールを厳格にJRで最初に実施したのが、JR東海、(訂正します、国鉄末期に職員局が、バッチ類の着用で処分をしていたようです、私の調査不足でした、その後判明した内容ですので、ここに追記させていただきます。)国労組合意を中心にバッチを勤務時間中に着用しているとして処分を連発したと聞いたことがあります。

その後は、バッチではなくネクタイであったりボールペンに国労のマークを入れているのはご存知の通りだと思います。

 

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画像はイメージです。

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 2 スト権回復立法構想の提起
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┌──────────────────────────┐
├○ 全逓名古屋中郵事件・札幌駅ビラ貼り事件最高判決 │
└──────────────────────────┘

 1975(昭和50)年のスト以来、官公労働者の労働基本権をめぐる政治・判例動向は、年々、遺憾な方向に向かっていた。最高裁判決ではすでに全農林警 職法事件判決で、これまでの判定から逆転し、スト権否認の方向が強まった。その後も、公務員の政治活動禁止を合憲とした全逓猿払事件判決(74年11 月)、学力テスト反対闘争中の説得活動を有罪とした岩手学テ事件判決(76年5月)などが相次いだ。
 77年5月4日の全逓名古屋中郵事件判決は、「公労法第17条第1項による争議行為の禁止は憲法28条に違反しない」ことを公然と結論づけ、争議行為を 正当化した。この判決は、スト権ストの半年後の判決であり、事実上、スト権ストに対する判例であった。そのうえで、さらに組合活動の自由に関する二つの最 高裁判決が出された。
 77(昭和52)年12月13日、最高裁は、目黒電報電話局事件に対する判決を行った。判決で、最高裁は、職員の職務行為になんら支障のない反戦プレー ト着用をとらえて、その行為は政治活動を禁止した電電公社就業規則に違反するとしただけでなく、この行為は職務専念義務にも違反し、さらに職場規律をも 乱すとして懲戒処分の対象になると断じた。つまり、職場における日常の組合活動すら否認しかねない「法の論理」が展開していた。
 79年10月30日の札幌駅ビラ貼り事件最高裁判決は、その「法の理論」をさらに徹底させ、当局の承認を欠いたいかなる企業内活動も許されるべきではな いという結論を導き出した。その「結論」とは、「労働組合又はその組合員が使用者の所有し管理する物的施設であって定立された企業秩序のもとに事業の運営 の用に供されているものを使用者の許諾を得ることなく組合活動のために利用することは許されない。」というものであった。
 最高裁は、5・4全逓名古屋中郵事件判決で争議権を否認し、今度は「施設管理権」をタテに組合活動を職場から締め出そうとした。労働基本権回復のため闘っている官公労働者には。80年代を前にして憂慮すべき状況にあった。

続く

 猿払事件

猿払事件 裁判要旨

1. 国家公務員法102条1項、人事院規則14-7・5項3号、6項13号による特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布の禁止は、憲法21条に違反しない。
2. 国家公務員法110条1項19号の罰則は、憲法31条に違反しない。
3. 国家公務員法110条1項19号の罰則は、憲法21条に違反しない。
4. 国家公務員法102条1項における人事院規則への委任は、同法82条による懲戒処分及び同法110条1項19号による刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に人事院規則に委任しているからといって、憲法に違反する立法の委任ということはできない。
5. 国家公務員法102条1項、人事院規則14-7・5項3号、6項13号の禁止に違反する本件の文書の掲示又は配布(判文参照)に同法110条1項 19号の罰則を適用することは、たとえその掲示又は配布が、非管理職現業公務員であって、その職務内容が機械的労務の提供にとどまるものにより、勤務時 間外に、国の施設を利用することなく、職務を利用せず又はその公正を害する意図なく、かつ、労働組合活動の一環として行われた場合であつても、憲法21 条、31条に違反しない。

(4につき反対意見がある。)

wikipediaより引用

国家公務員法 第102条(政治的行為の制限)

1 職員は、政党又は政治的目的のために、寄付金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。

2 職員は、公選による公職の候補者となることができない。

3 職員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問、その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。

国家公務員法110条1項19号 第102条第1項に規定する政治的行為の制限に違反した者
 

人事院規則 14-7 5項第3号

5  法及び規則中政治的目的とは、次に掲げるものをいう。政治的目的をもつてなされる行為であつても、第六項に定める政治的行為に含まれない限り、法第百二条第一項の規定に違反するものではない。

三  特定の政党その他の政治的団体を支持し又はこれに反対すること。

人事院規則