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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 125

 久々に更新させていただきます。
本日から久々に、国労の資料を底本として、解説を加えさせていただこうと思います。

はじめに

今回は、国労がローカル線廃止を唱える中で、国鉄当局は幹線鉄道以外のローカル線(輸送密度4000人未満の路線)を全て、国鉄が出資する株式会社に移管して地域毎の運営を図るとして、臨調に対する対案として示してきました。
特定地方交通線にみられた、第三セクターにより近いものになっていたかもしれませんが、各路線毎に運賃も異なる路線が生まれていたりしていたかもしれません、さすがにその案に対して、再建監理委員会も、極論すぎるとして拒否しています。
国鉄と言う組織を考えるとき、常に極端から極端に走るきらいが有り、その傾向は国鉄末期まで変わる事はなかったように思えます。
収支均衡を目指せというのなら、赤字が減らないローカル線は、さっさと切り離して、廃止などしやすいように子会社化してしまおうという発想であったと受け取れます。
生産性運動の時もそうですが、国会でそして、マスコミで追求されると、見直しではなく、中止したうえ、労働組合の良いなりに条件をのんでしまって、その結果職場の荒廃と貨物輸送の荷主を失うという、大きなミスを犯してしまうのですが、生産性運動の時も、「不当労働行為が一部の管理者で行われていたことは認めるが、是正すべき所は是正して、組合とも話し合い、正すべきところは正すと」として、生産性運動を続けていたならば、その後の国鉄の姿も変わっていたかと思われますが、結果的には、上層部は国労幹部と国鉄当局幹部の癒着、現場レベルでは、階級闘争による職制(助役など中間管理職を中心とした管理者)への吊し上げが常態的に行われるようになり、結果的にさらなる赤字の増大と税金の投入という結果を招いたわけで有り、そうした結果もあるので、当局が一斉にローカル線は「国鉄直営から切り離す」という発言に対して、牽制をかけたわけで。
それに対して、国労が一定の評価をしているのは皮肉と言えるでしょう。
 

臨調の基本答申に対案を提示する国鉄

国鉄では、臨調の分割民営化に対抗すべく、国鉄としては、幹線系は国鉄自らが運営することとし、特定地方交通線として選定した以外の路線にあっては、国鉄が全額出資する新会社を設立するとして、下記のように発言しています。

 

地方交通線問題については,第3次までの特定地交線については,61年末までに第3セクターなりバスなりに転換し,その他については,分離し株式会社にして効率を上げていこうと考えています。幹線プラス20線位の地交線は直営としますが,それ以外の70線位の地交線は国鉄の出資による株式会社にしたいと考えています。

国有鉄道 1985年2月号 「経営改革のための基本方策」 の表明にあたって、から引用

これによりますと、特定地方交通線の選定に当たっては、下記のような基準が設けられていました。

上記の条件に当てはまる路線は、バス転換等を中心に転換が進み廃止されていきましたが、これ以外の路線にあっては、国鉄は経営から分離して国鉄が全額出資による株式会社として運営したいとしていました。
それが、下記の一覧表になります。
下表では、岡多線(第3次特定地方交通線)、それとここでは出ていませんが、伊勢線(第2次特定地方交通線)が廃止対象となってしまい、国鉄第三セクター鉄道の設立を依頼したと言われています。

国鉄案で上がった、ローカル線分離案の路線一覧

国鉄が試算した特定地方交通線以外の路線の計画

85年1月10日に国鉄独自再建案として「経営改革のための基本方策
」が発表されたが、そこでの地方交通線対策として次のような新方針を打ち出したのである。すなわち、今後86年度末までに「すべての特定地方交通線の転換をめざして取り組むとともに特定地方交通線以外の存続地方交通線について、より効率化を図るため89年度末までに、個別に国鉄全額出資による株式会社を設立し、それぞれの経営理念のもと地域の実情に適合した運営を行うこととする。その際、線区の性格、輸送実績等を考慮して20線区は当面直営とし、残る70線区を株式会社とする」としたこの案を批判した監理委員会は、赤字地方交通線の一律切り捨ては知恵がない、と述べた。この見解はそれまでの監理委員会の提言内容とは異なり、何らかの形で地方交通線国鉄に残すことを示唆していた。

 

国労は、国鉄地方交通線の殆どを切り捨てるとしていたのに対して、再建監理委員会が、ローカル線を全て切り離すのは無理があるとして、国鉄に残すことを示唆したことを評価しています。
実際にJR西日本芸備線や、JR九州指宿枕崎線なども、当時から比べると大幅に旅客数が減少しているわけで、そうした意味ではJR各社は、路線網を維持していると言えます。
 

国鉄は、特定地方交通線以外の地方交通線を子会社化すると提案

国鉄は、特定地方交通線以外の地方交通線を子会社化すると提案

国労はローカル線廃止反対の運動を展開

国労は、ローカル線の廃止は当然のことながら組合員の減少を招くことから強く反対の立場を貫いており、地域の足を守れということで、組合は、下記のように「協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。」としています。

以下は、個人的な見解ですが、国労のこうした運動方針をみていますと、国民のためと言いながらも、どこまでも保身と言いますか、組織温存のための廃止反対運動というようにも取れます。

協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。・・・というのも、その合理性が説明できないと難しいと思うわけです。
協議会を設置しないとしても、最終的には、一方的廃止に追いやられることになると思うんですが。

 

第二次特定地方交通線の廃止は82年11月に運輸大臣へ承認申請を行ったが、第二次特定地方交通線の闘いについて、国労は83年度の運動方針で次のように決定した。
① 第二次廃止予定線の闘いは、第一次予定線での闘いの教を基礎にし、第一次と第二次の結合した闘いを組織する。
② 知事の意見書は第一次の場合軽視されたので、これを出させないよう全力をあげる。
③ 協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。
④ 地方線廃止反対の闘いは、臨調答申にその基本があることを確認し、組織活動、教宣活動を強化する。
⑤ 第二次廃止予定宣伝の関係自治体の反対意見書のとりつけを『分割・民営化』反対の意見書とセットにして進める。
⑥ 総評が提起している1万カ所対話集会との結合をはかるとともに、随時対話集会、セミナーなどの開催を積極的に進める。
⑦ 国会請願、抗議行動など闘いの節々で中央行動を展開する。

国労の運動は、地域にどのように映っていたのか?

実際、地域の反対運動を続けるグループからも、

「地域共闘の仲間から〝国労は何をするのか、何をしてくれるのか?という疑問も出されている。」

国労の運動方針のなかで、国労の地域闘争の問題点として書かれていますが、実際国労の中でも、地域との共闘をと言いながらも、国鉄の中だけの闘争に小さくまとまってしまっているというか、国鉄という組織が、外部との接触を殆ど断ってもやっていける自前の組織だったことも、その辺の連携が上手くいかなかった原因ではないかと思われます。

以下、引用します。

85年度の国労の運動方針は、国労の地域闘争の問題点として、次のような指摘をしていた。
  「地域との共闘と国労の職場の闘いが正しく結合されていない 面がある。地域共闘依存型か企業内 だけの運動型か、いずれかに偏向し、地域共闘の仲間から〝国労は何をするのか、何をしてくれるのか?という疑問も出されている。地域住民や利用者と国鉄労働者の要求の統一についての取り組みが不十分なことから、合理化反対闘争と国鉄の民主的再建闘争がかたく結びあってすすめられない。そこには、企業主義が根強く残っている」

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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第五節 国鉄の独自再建案と
     地方本部交通線廃止反対闘争一 国鉄の経営改善計画の修正
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├○ 三 地方交通線の廃止計画と廃止反対闘争│
└─────────────────────────────┘
 
特定地方交通線の廃止 
  
全国各地の地方交通線国鉄経営から分離されていった時期は、第二臨調が発足し、国鉄改革の方向を定めていった時と重なっていた。第二臨調の基本答申の国鉄改革の方向は、国鉄が経営するのは鉄道特性の発揮できる分野に特化すべきだということであるから、地方交通線の廃止は促進する方針であった。さらに、国鉄再建監理委員会の第一次緊急提言(83年8月2日)および第二次緊急提言(84年8月10日)のいずれも、地方交通線国鉄経営から分離し、バス転換、第三セクター転換、私鉄への譲渡の早期実施を強調していた。国鉄の「経営改善計画の変更」についての監理委員会の意見も、予定どおりの地方交通線対策の実行を求めていた。
 こうしたなかで、特定地方交通線の廃止反対運動もあって、地元との協議は最初の1、2年はバス転換等がすすまなかったが、84年、85年になって急速に協議が整い、バス転換または第三セクター転換等が決定しいった。85年7月末現在で転換を完了した線は30線530.5キロであり、転換の方向づけを決定した線は7線137線キロとなった。
 ところが、85年1月10日に国鉄独自再建案として「経営改革のための基本方策
」が発表されたが、そこでの地方交通線対策として次のような新方針を打ち出したのである。すなわち、今後86年度末までに「すべての特定地方交通線の転換をめざして取り組むとともに特定地方交通線以外の存続地方交通線について、より効率化を図るため89年度末までに、個別に国鉄全額出資による株式会社を設立し、それぞれの経営理念のもと地域の実情に適合した運営を行うこととする。その際、線区の性格、輸送実績等を考慮して20線区は当面直営とし、残る70線区を株式会社とする」とした。この案を批判した監理委員会は、赤字地方交通線の一律切り捨ては知恵がない、と述べた。この見解はそれまでの監理委員会の提言内容とは異なり、何らかの形で地方交通線国鉄に残すことを示唆していた。
 第二次特定地方交通線の廃止は82年11月に運輸大臣へ承認申請を行ったが、第二次特定地方交通線の闘いについて、国労は83年度の運動方針で次のように決定した。
① 第二次廃止予定線の闘いは、第一次予定線での闘いの教を基礎にし、第一次と第二次の結合した闘いを組織する。
② 知事の意見書は第一次の場合軽視されたので、これを出させないよう全力をあげる。
③ 協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。
④ 地方線廃止反対の闘いは、臨調答申にその基本があることを確認し、組織活動、教宣活動を強化する。
⑤ 第二次廃止予定宣伝の関係自治体の反対意見書のとりつけを『分割・民営化』反対の意見書とセットにして進める。
⑥ 総評が提起している1万カ所対話集会との結合をはかるとともに、随時対話集会、セミナーなどの開催を積極的に進める。
⑦ 国会請願、抗議行動など闘いの節々で中央行動を展開する。
 国労は84年4月3日、「国民のための国鉄を再建する全国交流集会」を開いており、集会では運賃値上げ反対、地方交通線廃止反対、国鉄分割・民営化反対を掲げていた。集会には、特定地方交通線の第一次、第二次廃止対象線区で闘っている代表を中心に200人が参加した。交流会では、廃止線区に選定されて以来の闘いの経験が報告された。
 木原線の代表は、「乗車運動で地方協議会は三度目の協議中断に入っている。しかし当局は、第三セクター・バス転換への計画を進めており、楽観できない。幅広い参加で問題の本質をストレートに言えないこともあり、社・共など政党の独自宣伝が必要だ」と問題提起した。倉吉線の代表は、「乗車運動のできない線区もある。守る会会長に市長を置くなど自治体との連携が重要だ。白糠線など既成事実が作られると、あきらめも出てくる。二次線を遅らせるためにも一次線はがんばるべきだ」と強調した。あるいは、「地域の教育路線と位置付け運動を強化したい」と決意を述べる代表もいた。このほか、「バス転換を決められたが、これまでの運動は住民中心の訴えだったため国鉄・政府の本質を暴露しきれなかった」(高砂線)との反省も出された。
 すでに述べたように、国鉄当局は82年11月に「第二次特定地方交通線」の廃止申請を運輸省に提出した。運輸省は関係17道県知事に意見書の提出を求めていた。各道県は第一次の時に無視された経緯があるため、意見書の提出に反対の姿勢を堅持していた。しかし、政治的圧力によって5月27日の福岡県を最後に、全関係知事が意見書を提出するに至った。運輸省は意見書にもとづき現地調査と自治体等からのヒヤリングを6月上旬に終え、22日に承認保留の6線区(岩泉線名松線天北線、名寄線、池北線、標津線)を除き、廃止を承認した。
 また、第一次特定地方交通線のうち輸送密度が2000人を越えていた木原線、若桜線信楽線三線60.9キロは協議を中断していたが、86年7月末現在、この三線と角館線以外の第一次特定地方交通線はすべてバス、第三セクター、地方鉄道への転換が完了した(角館線は86年11月1日に第三セクターに転換した)。
 国労の84年度運動方針には真岡線などで実施された「費用・便益計算」の調査結果をもとに、廃止基準の見直し要求を進めるという新しい方針が盛り込まれていた。しかし、この時期は国労に対する攻撃が激しさを増し、地域での取り組みに十分な力を発揮できなかったことも確かである。第二次特定地方交通線の協議会開催について、頑強に開催反対を貫いてきた北海道も協議会発足を余儀なくされた線区が幾つか出た。
 85年度の国労の運動方針は、国労の地域闘争の問題点として、次のような指摘をしていた。
  「地域との共闘と国労の職場の闘いが正しく結合されていない 面がある。地域共闘依存型か企業内 だけの運動型か、いずれかに偏向し、地域共闘の仲間から〝国労は何をするのか、何をしてくれるのか?という疑問も出されている。地域住民や利用者と国鉄労働者の要求の統一についての取り組みが不十分なことから、合理化反対闘争と国鉄の民主的再建闘争がかたく結びあってすすめられない。そこには、企業主義が根強く残っている」。
 国鉄は、第三次特定地方交通線廃止については、12線338.9キロを選定し、86年4月7日運輸大臣に承認申請を行った。 

続く