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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 96-2

長らく更新しておりませんでしたが、改めて更新させていただこうと思います。

国鉄当局の退職前提の休職に対する、国労の闘争を、国労の資料から見ていくものですが、国鉄のこうした大量の過員【余剰人員】は、どのような契機で発生したのかを考えないとみえにくいものがあります。

合理化しても人を減らせない職場

本来であれば、機械化することなどで合理化するのが本来なのですが、合理化=人減らしに繋がるとして、「合理化しても人を減らさない」もしくは、合理化させないといった行動を取ってきた時代がありました。

昭和53年鉄道ジャーナル10月号では、架線下DCの特集をしていますが、そのパターンとして

  1. 非電化線区への直通が出切り気動車の特長を活かした運転パターン
    A 主要区間が電化され、途中から分岐するローカル線が非電化であるパターン
    B 電化路線の路線の一部が非電化で残っている場合【紀勢本線の新宮以東など】
    C 走行区間の一部に電化区間が介在する
  2. 非電化ローカル線からの直通列車を併結させるパターン
  3. 車両基地の理由から運転されるパターン
  4. 間合い運用を活かすために架線の下を長距離にわたって運転されるパターン

ということで、書かれており、

特に、2~4のパターンは、本来であればで、無理に走らせる必要のない列車ではないかと疑問を挟んでいるものがあります。

特に、車両基地の理由から運転されるパターンの場合は、車両基地の統合反対などの妥協の産物で生まれたものも多く、

同じく、鉄道ジャーナルの架線電化と動力車の中で、電化後のDC列車が残る理由として、車両基地の能力不足・・・として、DCで運転しているとされていますが、こうした例も以前であれば、基地の統廃合で今まで対応していた事例であり、こうした統廃合を行わず、電化だけはするけれど、普通列車気動車で引き続き険修させると行った二重投資を認容してきたことの証左になります。

実際、長崎、佐世保電化では、特急列車のみ電車化して、急行列車以下は引き続き気動車で運転すると言う事例がありましたし、紀勢本線の場合も、特急は日根野電車区配置となったものの、気動車は和歌山機関区に引き続き残り、急行きのくにの運用に残ると言ったことがありました。

これに対しては、将来的紀勢東線区間を電化させるか否かを見極めるためという理由がなされていますが、このあたりも、組合との基地統廃合の問題があったのでは無いかと思われます。

結局、和歌山機関区はその後合理化で、電車配置がなされますが、昭和43年の国鉄部内誌、交通技術を参照しますと、将来の紀勢本線電化も見越して、日根野に電車基地を、設けるとしています。

3基地の必要性
 現在の阪和線の電車基地は、鳳電車区のみで、紀勢・
和歌山両線のDC・SL基地とLては、和歌山機関区がある。
 鳳電車区は、昭和19年阪和線南海電車から国鉄に買収されて以来殆んど増強のための改良は行なわれず、その留置能力はすでに眼界に達し.基地内のELを竜華に配置替えした跡、ならぴに吹田工場鳳電車職場を吹田に移転した跡(能力増24両)を整備して留置線に充当してもなお、30両の能力不足となり.また紀勢直通優等列車も、和歌山地区その他に分散留置させても約30両の不足となる.
 さらに将来の紀勢線の電化、及び飯和沿線の宅地造成計画による人口増加により、電車の大幅な増備が見込まれる。
したがって、相当程度の輸送量の段落が想定され、かつ用地取得の比較的容易な、日根野駅付近に将来事両基地を新設(理在の鳳電車区は電留線として在置する〉ことが決定された。

交通技術、昭和43年11月号から引用

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これ以外にも、交流電化区間などでは、特急のみ電車化して、普通列車は引き続き気動車や客車列車で残ると言った場合も数多く有りました。このような矛盾と言える運用などは、サービス上も、運営上も非効率な経営を加速させることとなりました。

この当時は、まだまだマル生運動の後遺症で、組合に対して妥協に妥協を繰り返す、そんな時代でもありました。

北海道で、基地の統廃合問題で、ダイヤ改正が遅れたと言ったこともあり、本社としてもなんとしてもダイヤ改正だけは実施したいので、ということで、組合と妥協に妥協を繰り返すと言ったことをしていた時代でもありました。

このように、組合と妥協を繰り返し、合理化しても人を減らさないと言う奇妙な合理化を進めてきた時代のつけが、昭和56年5月に承認された経営改善計画以降、強力に推進されることで、大きな問題として浮き彫りになってきたと言えそうです。

また、その時期に太田職員局長、【鉄労の志摩委員長の弁では、ただ時流に乗ったタカ派だと発言していますが、労使との馴れ合いに対して決別するとして、政府の後ろ盾がある、経営改善計画に則り、合理化を進めていくこととなったのです。

余剰人員の発生は構造的

このように、今まではどちらかというと、妥協に妥協を重ねてきた消極的な合理化【自然減と採用数の減少による定員減)から大きく舵を切るようになり、CTC導入に伴う旅客駅の無人化や、委託化を進め、駅職員を中心に余剰人員と呼ばれる過員が増えてきましたが、駅員の場合は、大駅への転勤などで吸収することが出来ましたが、貨物輸送の輸送量減少に伴う、貨物列車廃止などで、機関士自体が余ってしまい、職場に来ても仕事がないぶら勤状態が顕著な問題となってきました。

また、これと派生して、機関車の運用距離が減るので、必然的に工場入場の回数が減り、今度は工場もそれに連動して、人が余剰になってくると言う悪循環になっていきました。

当局も労使対決姿勢を明確に

昭和50年代の国鉄労使の関係を公企労レポートなどで参照していきますと、処分の段落とし、本来の発令するべき処分よりも一段軽い処分、例えば、解雇相当であれば、停職にするとか、停職であれば、減給と言った形で処分を軽くするものでした。

実際には懲戒免職になる職員が、数ヶ月の停職で、国鉄職員としての資格を失わず、国鉄の組合幹部として戻ってくると言ったことが行われていたわけです。

組合にしてみれば、解雇となれば、組合費からその組合員を専従などで雇用することになりますが、身分を失わない場合は、組合は実質的にその職員の雇用に関しては考慮する必要は無いわけですから。

それが、昭和57年頃から風向きが変わってきたわけですが、国労は大きな船よろしく、中々方向転換が出来ず、当局に対して対抗していくことに成るのでした。

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**********以下は、国労の資料から***************

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第3節 59・2ダイヤ改正後の余剰人員対策をめぐる交渉
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 一 余剰人員対策の交渉と闘い

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├○ 「特例休職」募集の開始提案に対する闘い│
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  国鉄当局はこの調定案の出た翌25日、第2回目の余剰人員対策第3項目の交渉を各組合と行ったが、その席上「特例休職」(退職を前提にした休職希望者の募集=56歳以上の者の勧奨退職)募集を9月1日から始めたいと提案してきた。
 国労は、この提案に対して、7月30日、31日に全国委員長戦術委員長会議を開き、募集撤回を要求して、8月10日、地上勤務者による全地方本部の2時間ストを実施することを決めた。国労は、募集撤回のこの8月闘争を重要視し、同時に「分割・民営化」を明示した監理委員会の第2次緊急提言が10日頃出されるとみて、この闘争を「分割・民営化」反対の長期闘争の一環に位置づけた。
 国鉄当局は、この8月闘争に先制攻撃を仕掛けるかのように、83年5月13日の監理委員会設置反対の29分スト、84年7月6,7両日に実施した過員問題解決要求と健保改悪反対の順法闘争の二つの闘いにたいして、停職3人を含む2600人の大量処分を通告してきた。
 国労は7月31日、9月1日から特例休職の募集を行うという提案を撤回し、団交での合意を求める、という要求を当局に提出した。8月2日にこの緊急要求で本社交渉を行ったが、当局は提案通り9月1日から実施したいと回答し、「調整策が有効に機能しなければ雇用安定にとって最悪の事態も予想され、民間で行っている調整策の一番上位のものが迫られる」と述べ、国鉄労働者の指名解雇もあり得ると国労を恫喝した。こうした恫喝に対し、国労は強く抗議し、9月1日の募集の中止を重ねて要求した。
 8月9日、ストライキを翌日に控えて国労は本社との準トップ交渉を行った。ここで当局側は9月1日の募集は該当職員の再就職のためであるとし、9月1日募集開始を譲らなかったため、組合と対立したまま交渉を打ち切った。かくして「三項目」提案の撤回、9月1日からの「特例退職」募集中止を要求した。8・10ストライキが実施された。全国27地本363ヶ所の拠点指定職場で3万1111人が参加した始業時から2時間のストライキであった。このストライキは、これまでの弱点を克服して全国統一闘争を成功させることができた画期的なストライキであった。

続く